浅野 素女
2012年07月10日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2012年07月10日 |
浅野 素女 |
住まい・生活 |
食生活 |
情報誌CEL (Vol.101) |
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2ヵ月たっぷりあるフランスの夏のヴァカンスは、家族でふだんとはひと味ちがった体験をする絶好の機会である。もちろん、親の方は2週間くらいの休みを取るのがせいぜいだ。それでも、日本に比べたらずいぶん優雅なものである。
何も贅沢なレジャーに出かけるわけではない。一部にはそういう人たちもいるが、キャンプをしたり、田舎の実家に滞在したり、山歩きをしたり、それほどお金はかけずに長期滞在を楽しむのがフランス流。 母親も働いている家庭がほとんどだから、ふだんの生活は忙しない。その分、休みには自然と親しみ、場所と生活のリズムを変えて、家族の時間を取り戻すのである。
そんな中で、一番の要は食事の時間だ。みなでいっしょに用意して、おしゃべりしながらゆっくり食事をとる。祖父母も加われば、大切な世代間交流の場ともなる。
「ほら、肘をつかないで」
「両手はテーブルの上に出しときなさい!」
なんて、口うるさいおばあちゃんの声が聞こえてきそうである(こちらでは食事中、両手を膝の上に乗せない。というより、テーブルの下に入れるのはお行儀が悪いとされる)。
食事は、単に空腹を満たす場ではなくて、会話や作法を通して社会性を身につける場でもある。久しぶりに会う親戚や友人が加わることもある。アペリティフ(食前酒)のおつまみを勧めるのは子どもたちの役割だ。おじいちゃんがワインを選ぶ。お父さんは肉を切り分ける。客への接し方やテーブルマナー、そんなことも子どもたちは自然と身につけてゆく。決して窮屈なものではなく、わいわいやりながら、「当たり前のこと」として身にしみ込んでゆく。ワインが回る食事の終わりころには、議論好きのおとなたちもリラックスして笑い話まで飛び出し、おとなも子どもも笑いころげながらデザートを平らげる。
日本では、いくらでもおいしいものが手に入るが、こうした身内と他人を交えての食事の場というのは意外に少ない気がする。食の喜びを分かち合うだけでなく、そこにマナーを尊ぶ姿勢があり、おとなたちがちゃんとそれを示してあげることは、未来のおとなを育てる貴重な教育の現場だともいえる。テーブルの隅でおとなたちの対話や議論の仕方を観察しながら、子どもたちは学んでゆく。テーブルに座っているのに飽きたら、チーズの皿を取りに行くおばさんの手助けをしてもいい。夏休みのようなゆったりした時間の流れの中でこそ可能な家族の時間だ。
食事が終わりに近づくと、コーヒーや食後酒まで待つのが退屈で、子どもたちはむずむずし出す。おばあちゃんの「じゃ、席を立ってもいいわよ」の声がかかると、いっせいに庭へ飛び出してゆく…。
学生だった私がフランスに初めてやって来てからすでに30年になる。この国が私に教えてくれたことで一番大きなことは、みなで食卓を囲む時間をとることの大切さだ。あまりに単純な、と思われるだろうか。グルメだとか、豪華な食事とかはまったく関係ない。シンプルな食事でも、アントレ、メイン、サラダ、チーズ、デザートと、順を追って(ということは、ある程度の時間をかけて)ひとコース終わる。そこに会話のスパイスが利いてこそ、「食事の時間」は完成する。
我が家の息子が思春期まっ最中、とても会話するなんて状態でなかった時でさえ、「食事の時間をとる」という姿勢だけは変えなかった。だから食卓が針のむしろであった時期もある。親の役目は、このひとときを守ることにあると信じて辛抱強く続けていたら、いつの間にか息子も成長し、向こうからいろいろ話してくれるようになった。
私自身、若い時はフランス人義父母との長い食事の時間を苦痛に感じたこともある。いまは繰り返されたあの時間が私を育ててくれたと感謝している。家族が一堂に会し、食と会話を分かち合うというただそれだけのことの積み重ねが、どんなに人生を彩り、深みを与えてくれることか。食を大切にするというのは、人を大切にするのと同義語である。適度な距離を保ちながら、ある作法に則って心をこめてふるまうという、日本の茶道にも通じるフランスのふつうの食卓こそ、未来へ今日をつなぐ大切な時空間に思える。