鈴木 隆
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2014年03月03日 |
鈴木 隆
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住まい・生活 |
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情報誌CEL (Vol.106) |
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私たちの直面している混迷は、近代科学の考え方に囚われすぎた結果ではないか。2回にわたり、ものの見方の根本にあるパラダイムについて、これまでの歴史の変遷をたどり、これからの解決の糸口を見出す。
今日、さまざまな分野で見られる閉塞状況の背後には、たいてい2つの「パラダイム」の対立が潜んでいる。機械論と生命論である。私たちは、近代以降、もっぱら物事を機械のように考える見方しかしなくなっているが、生命として捉える見方も必要である。この2つを使い分けられるようになることが、混迷を解くカギとなる。
本稿では、2回にわたって、機械論と生命論という2つのパラダイムについて見ていくことにする。今回は、パラダイムのはたらき、機械論と生命論の歴史的変遷について述べる。
パラダイムのはたらき
提唱者のトーマス・クーンによれば、パラダイムとは、「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」である(*1)。より一般的には、ものの見方、考え方の枠組み、世界観といえる。
パラダイムが定着しているときに、特定の科学者集団がパラダイムに準拠して行う一連の研究が「通常科学」である。ところが、パラダイムにそぐわない変則事例がいくつも現れ、予測がひんぱんに外れるようになると、パラダイムは危機に陥る。そして、ついには科学者集団が新しいパラダイムに乗りかえる「パラダイム・シフト」、すなわち「科学革命」が起こる。
そもそも、私たちは、何の囚われもなく純粋無垢の事実を見ることはできない。理論という色メガネを通してしか物事を見られないのである。観察とは理論を前提とした解釈にほかならない(理論負荷性)(*2)。
(*1)『科学革命の構造』(トーマス・クーン著、中山茂訳、1971年[原著1962年]、みすず書房)
(*2)『科学的発見のパターン』(ノーウッド・R・ハンソン著、村上陽一郎訳、1986年[原著1958年]、講談社学術文庫)、『知覚と発見』(ノーウッド・R・ハンソン著、野家啓一、渡辺博訳、1982年[原著1969年]、紀伊國屋書店)