山下 満智子
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2013年03月29日 |
山下 満智子
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住まい・生活 |
食生活 |
研究報告 |
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論文要旨
脳科学的アプローチによる調理をすることの効果に関する研究
序論 研究の背景と目的
調理をすることは、人間固有の行為である。生物人類学者であるリチャード・ランガムは、火を使い調理をすることで人類が現代まで進化を遂げており、人間の社会性も、火を使い調理をしたものを共食することで育まれてきたとしている。現代の社会だけでなく今後の社会においても、人間が調理をすることの重要性に変わりはないと考えられる。
しかし社会環境や食環境が変化する中で、現代の日本において家庭で調理をすることの必然性は、著しく低下している。本研究は、急激に変化する食環境の中で進む家庭の調理離れに対する懸念から、調理をすることの効果について脳科学的アプローチによりあきらかにし、家庭で調理に取り組むことの重要性について再認識することを目的とする。
食を取り巻くさまざまな問題は、今日の国民的課題であり2005年には食育基本法が施行され、食育推進のための多くの活動や調査、研究が行われている。子どもの食生活と母親の関わりに関する研究には、多くの蓄積がある。男性や高齢期の食生活研究にも多くの蓄積がある。さらに近年料理によるリハビリ効果に着目した研究が報告されている。
一方、脳活動の計測については、1980年代後半から非侵襲性の計測装置の開発がすすみ、さらに近年の近赤外線計測装置の開発によって、動態中の脳活動の計測が可能となった。既に音読や単純計算の行為などで左右の大脳半球の前頭連合野が活性化することが報告され、学習療法など実践的な研究により認知症高齢者の前頭連合野の脳機能の改善事例が報告されている。
近赤外線計測装置を使った調理中の脳活動の計測には、先行研究として、大人を被験者としたリンゴの皮をむいている時の脳活動を計測したものがある。近赤外線計測装置による調理タスク中の脳活動の計測と調理習慣導入の生活介入手法を併用した、脳科学的アプローチによる調理をすることの効果に関する研究は未だ報告されていない。
そこで「調理をすることにより脳が活性化する」、「調理習慣により前頭前野機能が向上する」、「親子調理の習慣が子どもの脳機能に良い影響を与える」という仮説を設定し、脳科学的アプローチによる調理をすることの効果に関する本研究を行った。
第1章 近赤外線計測装置による調理中の脳活性化計測実験
本章は、「調理をすることにより脳が活性化する」か否かについて、脳科学的アプローチにより検討する目的で行った。
普段調理を行っている成人女性を被験者に、非侵襲・低拘束性の近赤外線計測装置を使って、意思や理解、記憶、言語、思考など高次脳機能に関連する左右の大脳半球の前頭連合野をカバーする頭部にプローブを装着し、調理中の頭皮から20ミリほどの深さにある大脳皮質の活動を計測した。
被験者である成人女性15名(平均年齢45.3歳)に対して「献立立案(夕食のメニューを考える)」、「野菜を切る」、「ガスコンロで炒める」、「盛り付ける」という作業を課し、各調理タスク中の脳活動の計測を行った。
計測の結果「献立立案」、「野菜を切る」、「ガスコンロで炒める」、「盛り付ける」という全ての調理タスクで、左右の大脳半球の前頭連合野、特に作業の記憶や行動の戦略立案、問題解決、対応すべき規則の変化への対応などに関係する前頭前野の背外側前頭前野の活性化が、全ての被験者で確認された。調理タスク間では、脳活動に統計的な有意差は認められなかった。
調理を行うことによって前頭前野を鍛えることができると考えられ、前頭前野が担う他者とのコミュニケーションや身辺自立、創造力、学習など社会生活に必要な能力の向上につながる可能性が示唆された。
第2章 調理習慣導入による前頭前野機能向上の実証実験
本章は「調理習慣により前頭前野機能が向上する」か否かについて検討する目的で行った。
実験方法として、生活介入手法を用いて、59歳から81歳(平均68.5歳)の定年退職後の男性21名を被験者として、料理講習会と家庭での調理を組み合わせ、3ヶ月間調理習慣(週5回以上、15分から30分)導入の生活介入を行い、介入前後に脳機能検査を実施した。介入前後の脳機能検査の得点を比較し、調理の生活介入により前頭前野機能が向上するか否かについて検討した。
脳機能検査としては、前頭前野機能検査(FAB、ストループ課題)、思考力検査(トポロジー課題)、総合的作業力検査(符号課題)、認知機能検査(MMSE)の5種を行い、統計学的検討としてt検定を行い、p<0.05を統計学的有意とした。その結果、FAB(15.4点から16.3点に向上)、トポロジー課題(4.4点から5.3点に向上)、符号課題(55.1点から57.1点に向上)で、有意な得点の向上が認められた。
調理を習慣とすることが左右の大脳半球の前頭前野を鍛え、その働きであるコミュニケーションや身辺自立、行動や感情の制御など社会生活に必要な能力の向上や低下を防止する可能性が示唆された。
第3章 親子調理による子どもの脳機能向上の研究
本章は、「親子調理の習慣が子どもの脳機能に良い影響を与える」か否かについて検討する目的で行った。
実験方法として、親子調理による生活介入実験(介入群児童16人 平均年齢8.9歳、対照群児童13人 平均年齢8.8歳)、ならびに近赤外線計測装置による親子調理中の子どもの脳活動の計測実験(被験者児童8人 平均10.3歳)を行った。
生活介入実験として、料理講習会と家庭の調理を組み合わせ、3ヶ月間の親子調理の生活介入(週4回以上、15分から30分)を行い、介入前後に脳機能検査を実施した。脳機能検査として、全般的脳機能検査(符号課題)、前頭前野機能検査(数唱課題、概念化課題、配列課題)、頭頂連合野機能検査(迷路課題、二次元回転課題、三次元回転課題)、側頭連合野機能検査(図形適合課題)の計8種を行い、検査ごとに介入群ならびに対照群の各被験者の検査得点の変化値(プレテストとポストテストとの差)について、分散分析を行った。統計学的検討としてt検定を行い、p<0.05を統計学的有意とした。
計測実験では、左右の大脳半球の前頭連合野をカバーする頭部にプローブを装着し、親の指導のもと「ガスコンロでパンケーキを焼く」、「パンケーキを盛り付ける」という2つの調理タスク中の脳活動の計測を行った。
その結果、生活介入実験では、調理の生活介入を行った子どもで、概念化課題(6.5点から9.5点に向上)、二次元回転課題(19.3点から28.9点に向上)、迷路課題(5.8点から6.8点に向上)において有意な得点の向上が認められた。さらに概念化課題や二次元回転課題で、介入群ならびに対照群の2群間に有意な群間差が認められた。
計測実験では「ガスコンロでパンケーキを焼く」、「パンケーキを盛り付ける」といういずれの調理タスクにおいても、全ての被験者の左右の大脳半球の前頭連合野、特に作業の記憶や行動の戦略立案、問題解決、対応すべき規則の変化への対応などに関係する前頭前野の背外側前頭前野の活性化が確認された。調理タスク間には、統計学的な有意差は認められなかった。
従来の知見や脳科学の先行研究、本研究から、親子で行う調理の習慣が、前頭前野が担うコミュニケーションや自立、創造性、学習など、子どもにとって重要なさまざまな能力の向上につながる可能性が示唆された。
第4章 親子調理による親の脳機能向上の研究
本章は、「親子調理の習慣が親の脳機能に良い影響を与える」か否かについて検討する目的で行った。
実験方法として、生活介入実験ならびに近赤外線計測実験を行った。生活介入実験では、第3章の生活介入実験に子どもと参加した親を被験者とし、介入群(母親15人と父親1人、平均年齢39.9歳)と対照群(母親12人、平均年齢38.8歳)の2つのグループに対して、介入前後に子どもと同じ8種の脳機能検査を親子一緒に実施した。検査ごとに介入群ならびに対照群の各被験者の検査得点の変化値(プレテストとポストテストとの差)について、分散分析を行った。統計学的検討としてt検定を行い、p<0.05を統計学的有意とした。
計測実験では、9人の母親(平均年齢37.9歳)が左右の大脳半球の前頭連合野をカバーする頭部にプローブを装着し、親子でチキンライスとサラダを作るという設定で「トマトをあぶる」、「タマネギを炒める」、「ガスコンロで炊飯する」の3つの調理タスク中の脳活動の計測を行った。
その結果、生活介入実験では、調理の生活介入を行った親の二次元回転課題(44.4点が50.4点に向上)、図形適合課題(53.6点から59.6点に向上)において有意に得点の向上が認められた。しかし対照群の親では、得点は向上したが、有意差は認められなかった。2群間に子どもで見られた統計学的な有意差は認められなかった。これは、対照群の親も普段調理をしていることが影響しているのではないかと考えられた。
計測実験では、親子で「トマトをあぶる」、「タマネギを炒める」、「ガスコンロで炊飯する」という全ての調理タスクにおいて、全ての被験者の左右の大脳半球の前頭連合野、特に作業の記憶や行動の戦略立案、問題解決、対応すべき規則の変化への対応などに関係する前頭前野の背外側前頭前野の活性化が確認された。
従来の知見や脳科学の先行研究、本研究から、親子で行う調理の習慣は、単に子どもに料理を教えることができるだけでなく、子どもとの関わりが深まることなどから、親の子育ての充実感や自己効力感の向上、ストレス低減につながり、これらのことが親の脳機能に良い影響を与えるのではないかと推測されたが、この点については今後さらに研究を進める必要がある。
第5章 総括
本研究では、調理の生活介入と近赤外線計測装置による調理タスク中の脳活動の計測を行い、調理をすることの効果について脳科学的アプローチを試みた。その結果、調理をすることが人間の脳機能に良い効果をもたらすと考えられるいくつかの示唆を得た。
調理の生活介入では、脳機能検査において脳機能の向上が認められ、調理を習慣とすることが、脳機能に良い効果を与えると考えられた。特に普段調理をしていない高齢期の男性で有意差が認められた。また親子調理においては、子どもに対照群との群間差が認められ、親子調理を習慣とすることで、子の脳機能に良い影響があるのではないかという示唆が得られた。一方普段調理をしている親では、群間差は認められなかったが、親子調理の習慣が親の子育ての充実感や自己効力感を向上させ、ストレス低減につながり、これらのことが親の脳機能に良い影響を与えるのではないかと推測された。
近赤外線計測実験では、成人女性や親子調理中の子ども、親子調理中の親の全ての被験者の、全ての調理タスクにおいて、人間の高次脳機能を担う左右の大脳半球の前頭連合野、特に作業の記憶や行動の戦略立案、問題解決、対応すべき規則の変化への対応などに関係する前頭前野の背外側前頭前野の活性化が確認された。
社会環境や食環境が変化する中、現代の日本において家庭で調理をすることの必然性は、著しく低下していると考えられる。しかし調理をすることは、人間固有の行為であり、身近で創造的な行為である。また手指を動かし五感を刺激し、持続的注意力や短期記憶力、作業記憶力、感情のコントロールなど様々な脳機能を必要とする。
脳科学的アプローチにより調理をすることの効果について検討した本研究は、家庭で調理に取り組むことの重要性の再認識ばかりでなく、高齢社会の対応が急務である日本において、高齢社会対策として高齢者施設における調理設備の位置づけや料理によるリハビリの意義などに、科学的根拠を与えるものと考える。また国民的重要課題である食育の推進においても、食育活動として親子料理教室を開催する意義や、調理を通じた伝統的食文化の継承や食の安全性の確保などさまざまな取り組みにも、脳科学の立場から支援できるものと考える。