近藤 誠司
2015年03月02日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2015年03月02日 |
近藤 誠司 |
都市・コミュニティ |
地域ガバナンス |
情報誌CEL (Vol.109) |
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情報化社会が叫ばれ、情報の量は日々増え続けている。
情報の質に対する疑問が生じる場面も散見される。
情報の洪水の中で、情報は、"知った"だけでは意味をなさない。
ことに、災害に直面した場面では、情報とどう向き合い、情報をどう"生かす"のかが、生死を分かつことになる。
的確な減災・避難行動のためには、「リアリティ」が集団の中でどのように醸成されているのかをよく理解することが必要不可欠である。
情報を生かす
情報や知識は、ただそこにあるだけでは意味をなしません。「知った」だけでは、残念ながらそれまでのこと――もちろん知らないよりも、断然よいのですが――。「ナレッジ、ナレッジ……」と百回唱えても、「インフォメーション、インテリジェンス……」と千回叫んでも、事態は何も改善しません。特に、防災・減災に関する災害情報は、命を守り、命を救い、命を支えるための「命綱」となるものです。その「命綱」が、実際の現場で役に立たないものであるならば――すなわち、「行動:action」につながらないものであるならば――、その情報は"死んだ"も同然です。
それでは、災害情報を"生きた"ものにチェンジするには、どうしたらよいのでしょうか。筆者の考えを先に述べておきましょう。その鍵は、「リアリティ:reality」を共同構築することにあります。
状報+情報=リアリティ
ところで、そもそも「情報」という言葉は、明治時代につくられた比較的あたらしい言葉です(*1)。フランスの軍事演習の教科書を翻訳するために案出されました。「敵の状態を報せる」という意味です。したがって、「状報」と書く場合もありました。一説によりますと、文豪・森?外は、「状報」と「情報」を使い分けていたそうです(*2)。
前者、「状報」は、敵の陣形、兵士の数など、客観的な数値データに基づきます。ゆるぎのないものです。一方、後者、「情報」は、「もう、かなり危険です!」といった主観的な意図やメッセージが中核に据えられています。「実際のところ、よくわからないのだけれども……」といった、曖昧なもの、流動的なものさえ含まれます。
(*1)小野厚夫「情報という言葉を尋ねて(2)」『情報処理』46巻5号、475〜479頁、2005年、情報処理学会
(*2)大島進「?外森林太郎による獨逸語NACHRICHTENの二つの翻譯語『情報』と『?報』」、情報処理学会第40回(平成2年前期)全国大会、28〜29頁