情報誌CEL
山田耕筰の音楽にみる近代日本の自画像
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2017年03月01日
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片山 杜秀 |
住まい・生活
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ライフスタイル
その他
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情報誌CEL
(Vol.115) |
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日本の交響楽・オペラの隆盛に尽力、日本の近代音楽を確立するとともに、日本語の特徴を活かした童謡を数多く制作し、国民音楽の創造にも尽力した山田耕筰だが、意外にも、その実像はあまり知られていない。のちの耕筰の音楽観や思想に決定的な影響を与えたドイツ留学の経験を中心に、異文化受容の視点から作曲家の足跡を辿り直し、その音楽に刻み込まれたこの国の姿を問う。
知られざる功績
「夕やけ小やけの赤とんぼ」。三木露風作詞の『赤とんぼ』である。「この道はいつか来た道」。北原白秋作詞の『この道』である。「からたちの花が咲いたよ」。やはり白秋作詞の『からたちの花』である。いずれも山田耕筰の作曲だ。
これらの歌曲や童謡の作り手としてだけでも、耕筰の名は日本の文化芸術の歴史に永くとどまるだろう。が、彼のしたことはそれだけではない。近代日本が異文化としての西洋クラシック音楽を受け入れ、噛み砕く。その過程でときに惑い、ときに反発する。そして、その先に日本人ならではの表現を生みだそうとする。その苦労を一身に担ったのが耕筰だ。偉大なパイオニアである。
といっても、道を切り開いただけではない。たとえば夏目漱石や森鴎外を思いだそう。彼らは日本近代文学の開拓者とも呼べる存在だが、と同時に漱石や鴎外本人が巨峰であり、彼らの作品自体が古典である。日本人が異文化としての西洋近代小説に倣って、日本語で日本人の思想や感性や教養を活かして書くのならこうなる。そういう模範を、漱石や鴎外はいきなり究極的なところでつくりだしている。
耕筰は日本近代音楽における漱石や鴎外である。彼もまた開拓者にして達成者だ。『この道』や『からたちの花』は日本近代歌曲の古典に違いない。耕筰はシューベルトになぞらえられて「歌曲王」と呼ばれもする。そして、歌曲や童謡に比して遜色のない仕事を、オペラやシンフォニーの分野でもしている。漱石や鴎外くらいに耕筰についても、われわれは知っていてよい。
作曲家への道
山田耕筰は1886(明治19)年、東京の本郷で生まれた。漱石よりも19歳、鴎外よりも24歳若い。漱石や鴎外に相当する洗練されたタレントが、日本近代音楽史では文学史よりもそれだけ遅れて現れている。音楽史の方が展開に時間がかかっているとも言える。
不思議なことではない。音楽で楽器の演奏や理論に習熟するには、個人としても時間がかかる。語学は辞書と文法書があれば学べぬこともない。