情報誌CEL
九鬼周造の求めた「恋」のかたち 「いき」と「コケットリー」
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2017年03月01日
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宮野 真生子 |
住まい・生活
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ライフスタイル
その他
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情報誌CEL
(Vol.115) |
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1920年代にヨーロッパへ留学し、当時の経験から、日本特有の美意識や倫理を「いき」として再発見したことで知られる哲学者・九鬼周造。その著書『「いき」の構造』はいかにして生まれたか。西洋の女性たちのコケティッシュな佇まいとの比較から導き出された「いき」の本質を見直すことで、日本人が近代化により失った精神性の在り処を問う。
九鬼周造という人
満州事変の前年、日本を取り巻く不穏な雰囲気をかすかに感じつつ、しかしまだ国内は比較的平和だった1930(昭和5)年、『「いき」の構造』という本が出版された。タイトルを見ると、「いき」という日本的美意識を持ち上げる、日本礼賛の書だろうかと思うかもしれない。じっさい、頁をめくれば、「いなせ」や「みやび」「わびさび」といった様々な日本的なワードが飛び交っている。しかし、それらの言葉を扱う手法は徹底して西洋哲学の手つき(しかも当時最新の学問スタイルだった解釈学と現象学)で、初めて読む人はその落差にすこし面食らうだろう。西洋的まなざしで日本を見返す。それは、近代化のなかで失われていく日本のかたちを再発見することであると同時に、近代化の源流である西洋を問い直すことでもあった。西洋と日本のあいだ、近代と伝統のあいだ、相反する二元のあいだを往復することで、その根柢にあるものを捉えようとする、そんなスタンスでつねに思索を紡ぎ続けたのが、哲学者・九鬼周造である。
九鬼周造は、1888(明治21)年、有能な官僚であった九鬼隆一と祇園の舞妓だったと言われる波津子の四男として東京に生まれた。父隆一は慶應義塾で学んだ後、文部省に入った官吏である。隆一は摂津三田藩という佐幕派の小藩出身だったこともあり、外務省や内務省、軍隊といった薩長閥が占めている役所ではなく、文部省という比較的地味な官庁に入ることで出世を狙ったとも言われている。はたして、隆一はその通りに出世する。彼の最も大きな業績は、若き岡倉天心を見出し、その岡倉からフェノロサを紹介された後、三人で日本の美術行政の基礎を築いたことだろう。隆一はその後、アメリカ公使となって、妻波津子とともに海を渡る。ところが、波津子は慣れぬ土地での心労がたたり、体調を崩してしまう。さらに身重(このときの子が九鬼周造である)だったこともあり、夫に帰国を訴える。そこにたまたまやって来たのが、ワシントンからの帰りに挨拶に立ち寄った岡倉だった。