情報誌CEL
【対談】「天下の台所」に学ぶネットワークと豊かなまちづくり
作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
2017年10月31日
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安田 雪 稲葉 祐之 |
都市・コミュニティ
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コミュニティ・デザイン
地域活性化
まちづくり
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情報誌CEL
(Vol.117) |
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景気が停滞する現代日本の都市とは対照的に、活気を極めた近世の「商都 大坂」。
京都でも江戸でもなく、大坂が当時「天下の台所」になりえたのはなぜか。
組織や社会集団を中心に、横断的にネットワークの構造と影響を考察する社会ネットワーク分析に従事する安田雪氏と、経済活動を通じたソーシャル・イノベーションを研究テーマとする稲葉祐之氏に、江戸期大坂に学ぶべきまちづくりのネットワーク=「交」についてお話を伺った。
大坂はこうして「天下の台所」になった
稲葉:大坂は江戸期を通じて日本経済の中心地となり、後に「天下の台所」と呼ばれるまでに繁栄しました。なぜ大坂が商業都市としてあんなにも栄えたのか。それは時期的な要素がかなり大きいといえます。今の大阪に初めて大都市が生まれたきっかけは、本能寺の変の後、1583年に豊臣秀吉が大坂城の築城を開始したことです。場所は畿内一向一揆の中心地であり、廃墟と化していた大坂本願寺寺内町でした。
秀吉は荒れ果てた土地で、画期的なまちづくりを始めます。実は、寺内町は淀川・琵琶湖の水運や京都への街道を持ち、堺や兵庫など貿易都市にも近い要衝に位置していました。秀吉は交通の便を利用し、帰順した大名に材料や人夫を差し出させて城とまちをつくっていったのです。遠隔地から大量の物と人が集められるまちづくりは、全国に例を見ない試みでした。こうして大坂城近辺に物が集中するようになると、水運と街道を駆使して物のやり取りが盛んになっていきます。
安田:その状態から「天下の台所」を初めに仕掛けたのは、どういった人たちだったのでしょうか。
稲葉:それは、大量の物や人と一緒に全国から集まってきた商人たちです。物を集め、流通させるには、商品を一時保管しておく場所が必要です。そこで登場したのが、もともと人が住んでいなかった土地に蔵を建て、貸し出し、手間賃をとる商人たちでした。中世までの問や問丸の発展形といえるでしょう。彼らは新しい土地でも、運送や倉庫を兼ねる問屋というビジネスを行ったのです。
しかしやがて、大坂の商人たちは保管業以上のビジネスを始めることになります。安いときに物資を買っておいて、商品価値が高くなったらそれを売る。物をもっと戦略的に販売するようになり、ビジネス形態は中世の問屋やから差益商人としての近世の問屋へと変化しました。こうして問屋という流通の根幹となる仕組みが誕生し、また問屋を他の都市に先駆けて集積させたことで、大坂に多くの商品が集中するようになりました。