高谷 幸
2019年11月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2019年11月01日 |
高谷 幸 |
都市・コミュニティ |
コミュニティ・デザイン |
情報誌CEL (Vol.123) |
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2018年に外国人労働者受け入れ拡大のための法改定が行われ、移民社会としての日本が本格的に顕現してきた。
移民を「よそ者」と見なし距離を置くのはたやすいが、最早それでは日本社会の持続可能性を保っていくことは難しい。
同じコミュニティの構成員として、移民をどのような理念で捉え、協調していくべきなのか。日本における移民受け入れの流れを見渡しながら、この先これからの視座を考察する。
移民と「よそ者」
以前、日本で活躍されている中国人ジャーナリストの方に話を聞いたことがある。中国から日本に留学し、卒業後、日本でずっと仕事をしてきた彼は、私が話を伺ったときはすでに日本で20年以上暮らしていた。彼の話のなかで一番印象に残ったことは、それだけ長く住んでいても「いつ中国に帰るんですか?」と日本人から聞かれることがあり、「悲しくなる」というエピソードだった。おそらく、質問者からすれば何気ない問いかけだろう。しかし、このジャーナリストからすれば、自分は「いつか帰る人」で、日本社会のメンバーとは思われていないと感じる瞬間なのだ。
19世紀末から20世紀前半に、現在のドイツで活躍した社会学者のゲオルク・ジンメル(1858〜1918)は、「よそ者」について、次のように述べている。
……よそ者とは、これまでよく言われてきたように、今日来て明日去っていく人という意味ではない。むしろ今日来て明日とどまる人――いわば潜在的放浪者という意味だ。……彼は一定の空間領域――ないしは空間と似たような形で境界が定められている領域の内部につなぎとめられている(ジンメル「よそ者についての補論」G.ジンメル『ジンメル・コレクション』北川東子編訳・鈴木直訳、ちくま学芸文庫、1999年)。
つまり、ジンメルのいう「よそ者」とは、「今日来て明日去っていく人」(ここでは「旅人」と呼んでおこう)ではない。一方で、彼の表現をもじっていえば「昨日からいて明日もとどまる人」(ここでは「ネイティブ」と呼んでおこう)でもない。
「よそ者」とは、「外」からやって来つつ「内部につなぎとめられ」た者、つまりコミュニティのメンバーになった者であり、これからもそこにとどまる人である。ジンメルはまた、この「よそ者」の特徴を、その人の属性としてではなく、彼と集団との関係に見出している。