CEL編集室
2019年11月01日作成年月日 |
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2019年11月01日 |
CEL編集室 |
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情報誌CEL (Vol.123) |
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大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所が2008年から継続して取り組んでいる、「玉造黒門越瓜"ツルつなぎ"プロジェクト」。玉造稲荷神社が百年ぶりに地元で復活させた伝統野菜の種を、地域の人びとが共に育て、食し、広めていくことで、新たな交流を生み出している。プロジェクトの動向と、8月4日に開催された収穫祭の模様をレポートする。
なにわ名物として人気を博した「玉造黒門越瓜」
「なにわの伝統野菜」のひとつとして大阪府・大阪市に認証されている、「玉造黒門越瓜」。その長い名前には、この野菜が辿った歴史が詰まっている。
大坂・玉造周辺は、安土桃山時代、豊臣秀吉が造った大坂城の外郭(惣構)の内側にあたり、豊臣方の大名らが住む武家屋敷が並んでいた。しかし、大坂夏の陣ですべて焼失。江戸時代に、地域の有力者だった高津屋吉右衛門が幕府の命を受け、この土地を畑地として再開発した。高津屋はここで瓜を栽培し、その販売に力を入れた。これが玉造のブランド野菜「玉造黒門越瓜」の誕生である。「黒門」とは、大坂城の玉造門が黒塗りで、別名「黒門」と呼ばれたことに由来する。玉造には、明治時代まで続いた白瓜市場があり、この市場も別名「黒門市場」と呼ばれた。
「越」は、古代中国の長江の南にあった越の国の意味。瓜は原産地の北アフリカから方々に伝播し、インド・東アジアを経由して中国に伝わったものが越瓜となり、弥生時代頃に日本に渡来したのではないかといわれる。
玉造黒門越瓜が生まれた江戸時代中期、上町台地から湧き出る名水と、幕府から与えられた酒造りの権利によって、玉造には多くの酒造業者が集まっていた。良質な瓜と酒造りの工程でできる酒糟が組み合わされ生まれたのが、玉造名物の奈良漬けである。当時、玉造は大坂と奈良や伊勢を結ぶ玄関口で、お伊勢参りに出かける人びとの出発地として大いに賑わい、町には茶店や笠屋などの店が軒を連ねた。味がよく日持ちのする名物「玉造黒門越瓜の奈良漬け」は、伊勢参りの旅人たちの旅のお供や土産として人気を博した。その名は、江戸時代の名物名産略記や番付などの記録にも散見され、当時の人気ぶりをうかがい知ることができる。
しかし、明治時代に入ると、大阪城周辺には大規模な軍の工場が造られて、玉造には多くの工員が居留し、田畑や白瓜市場、酒造業者は消失。玉造黒門越瓜もこの地から姿を消した。