赤瀬 浩
2020年03月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2020年03月01日 |
赤瀬 浩 |
住まい・生活 |
食生活 |
情報誌CEL (Vol.124) |
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長崎の食文化に見る〝異文化結合〟
――遭遇と受容の最前線で何が起こったか?
異なる分野の結びつきのなかで、最も身近なのが食文化に関するものだ。
特に地域ごとの伝統食は、それぞれ独特の〝異文化結合〟の背景をもち、その豊かさが国内はもちろん海外でも大きな注目を浴びている。
数十年、数百年のスパンで、それはどのように成立したのだろうか。
本稿では、日本各地の食文化でも、海外との影響関係が色濃い「長崎食」に注目、長い時間を通じたその選択と吸収の歴史をひも解き、異文化結合のひとつのあり方を検証する。
「和華蘭葡」の世界
元亀2(1571)年の開港から今日まで、長崎で育まれてきた独特の生活様式や祭りなどを「和華蘭文化」と称している。和は日本、華は中国、蘭はオランダ。3つの要素が混在するカオス=「わからん」とかけている。
江戸時代、長崎では唐人、オランダ人たちが町の住民として生活していたため、彼ら異国のさまざまな文化が浸透し、模倣や融合という形で人々の生活に取り込まれていた。
しかしながら、長崎独特の文化は、出島や唐人屋敷での異国の人々との交流だけでなく、いわゆる鎖国以前のポルトガル人たちとの交流、唐人屋敷ができるまでの唐人たちとの交流が基底にあることに特徴がある。
ポルトガル人たちは、日本列島西果ての僻地に拠点となる要塞を築いた。そのことを長崎では開港ととらえている。その要塞が発展して長崎となった。彼らは長崎市中の家々に住民たちと同居する生活を送っていた。その期間がおよそ60年。キリスト教禁教政策の実施で、彼らは国外に追放された。その時、ポルトガル人と日本人との間に生まれた子供たち数百人も追放となった。
また、唐人屋敷が築かれて唐人たちが町外れの一画に隔離されるまでの約120年間、唐人は長崎の住民として普通に暮らしていた。
ポルトガル人、唐人と共棲していた経験が今日の長崎の生活様式や文化の根底にある。語呂は悪いが「和華蘭葡」が長崎の食文化を見るためのキーワードである。
ボーダーとしての長崎
『延宝版長崎土産』(1681年)という長崎丸山遊廓の遊女評判記で、著者の島原金捨は主人公が長崎の入り口、一瀬橋に差し掛かった時、「えもしれぬ」匂いに思わず卒倒しそうになったと書いている。これは、長崎の匂いとして当時の人々が共通して感じたものらしく、卒倒しそうになるという反応もお決まりの約束であった。