池永 寛明
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2020年11月01日 |
池永 寛明
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都市・コミュニティ |
コミュニティ・デザイン |
情報誌CEL (Vol.126) |
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コロナ禍という誰もが想定していなかった社会状況の中で、5年後に開催される大阪・関西万博に向けて何を考えなければならないだろうか。やるべきことは数々あるが、まず必要なのは、コロナ禍後の日本社会のあり方を議論することだろう。今回は、コロナ禍によって顕わになった日本社会の弱みと強みを考察し、これからの日本社会の方向性を探りたい。
コロナ禍でも
万博を開催するべきか?
「本当に2025年に万博なんてできるの?」
今、「万博を考える」と言っても、こんな声が聞こえてきそうです。コロナ禍後の社会全体の姿さえまだまだ不透明な状況で、万博よりも先に考えなければならないことがあるだろう、と。
そうした声に対して、「大阪で万博はできる」と答えます。むしろどんな形であっても「やるべき」です。
かつて、大阪では第二次世界大戦終戦からわずか3年後の1948年に復興大博覧会を開催しました。街は焦土と化し、気力を失っていたわが国で、博覧会は復興への光となりました。状況は違うかもしれませんが、コロナ禍後の社会の導きとなるためにも、大阪・関西でやるべきなのです。
もちろん、その大前提として、コロナ禍後の社会についての議論や考察が必要であることは間違いありません。そこで今回は、コロナ禍で顕わになった日本の弱みや強みについて考察し、今後の日本社会の再構築・再起動の方向性を考えていきたいと思います。
コロナ禍は大断層
日本の弱みは「読み違え」にあった?
コロナ禍後の社会は元の社会には戻らない――このことは前号ですでにお話しした通りです。しかし、表面的にはそうした考えを認識しつつも本音では「そうはいっても、いずれ元に戻るだろう」と考える人もいます。そうした人は、「人が集まってはいけないならばオンライン対応すればいい」などとテクニカルな手法だけに偏りがちです。この発想こそが、このコロナ禍で見えてきた日本の「弱み」ではないかと思います。そしてそれは、我々日本人が何かを「読み違え」たことに起因するものだと私は考えています。
「読み違え」はデジタル技術を中心にした革新的技術が生まれつつあった1990年頃に遡ります。当時我々はすぐれたデジタル技術により社会は発展し、経済はさらに上向いていくと信じていました。しかし実際はそうならなかった。これは当時の日本が技術の使い方を読み違えたからではないかと思うのです。