鈴木 謙介
2021年11月01日作成年月日 |
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2021年11月01日 |
鈴木 謙介 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.129) |
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当初は4台のコンピュータを電話回線でつないで始まったとされるインターネット。それから約50年、今やデバイスは手のひらにおさまるスマホへと変化し、誰もがいつでもネットにつながれる社会が到来した。
技術の進展とともに、日常のコミュニケーションから社会の仕組みまであらゆるものが様変わりしたが、我々はその変化を本当に理解しているだろうか。変化の本質を捉えきれないことで、不安をかき立てられているのではないだろうか。
そこで、2000年当初から、インターネット文化についての考察を重ねてきた社会学者の鈴木謙介准教授に、デジタル社会への不安の根源についての解説と解決の糸口について示唆をいただいた。
コンテンツ性をもちはじめたコミュニケーション
僕が『暴走するインターネット――ネット社会に何が起きているか』(イーストプレス)や『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)を執筆した2000年代初めは、ある種の端境期でした。国の政策も全国にインターネット通信網を張り巡らせるためのインフラ整備から、利活用を促すという課題へシフトしました。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が登場し、情報の主役も自治体や大学・研究機関といった公的なものから、普通の人々がコミュニケーションを行うためのものへ変わっていきました。
それが社会と個人、個人と個人の関係をどう変えることになるのか? 専門家や技術者だけではなく、僕のような社会学を専門とする人間にとっても、インターネットをはじめとする新しいデジタル技術について、考察したり研究したりする余地が生まれたのです。
その後、2010年代に大きな変化が起きました。コミュニケーションのなかに「コンテンツ性」が加わるようになったのです。言い換えると「伝える」ことより「見られる」ことを目的としたコミュニケーションが、普通の人々の友人との関係にも入ってきた。
Instagramのストーリーには、友人とカフェでお茶をしている様子が投稿されます。それは、友人と語らう時間を人に見せるためのコンテンツにしているということでもあります。このような変化は、オンラインの関係についてこれまで社会学が考えてきたことを変える必要性を示唆しています。
最近は、アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(新潮新書)といった本も話題になっています。以前の社会学なら、この議論は否定的に扱われていたはずです。なぜなら、依存状態になるのはスマホのせいではなく、友人との人間関係が原因だとみなしていたからです。ところが、自分のコミュニケーションを「見られる」ための資源として利用し、「いいね」などの反応が即時に返ってくるようになると、理性で考えるよりも先に快楽が得られてしまう。気づけばYouTubeやTikTokを見続けて一日が終わってしまった、自分は一体何をしていたのだろう。コロナ禍での若者の過ごし方についてヒヤリングすると、そんなエピソードが多々聞かれます。
ただし、若い世代がみな自分の日常を「見られる」ために発信しているわけではありません。SNSで積極的な情報発信を行っているのはごく一部で、多くの若者はSNSのコミュニケーションを「コンテンツ」として消費するに留まります。