大庭 健
2009年07月01日作成年月日 |
執筆者名 |
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2009年07月01日 |
大庭 健 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.89) |
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何のために働くのだろう? こう問うと、「生活していくためだ」という正解が待ち構えている。この圧倒的な正解は、ときとしては「なんで分かりきっていることを、したり顔で問うのだ?」という威圧的な響きさえをもつ。とりわけ失職し路頭に放り出された人々、低賃金の単純労働でなんとか食いつなぐしかない人々においては、とりわけ、そうであろうし、そうした苛立ちには十分な理由がある。しかし、そうした人々も、かつて安定した職業生活を送っていたころに、何かのおりにふと「そもそも何のために働くのだろう?」と呟きの自問を発したことがあるはずだし、あるいはこの先、快適な職場で働くようになった後でも、なお自問しうる。
そう自問するときには、「生活費を得るためだ」というだけでは答えにならない何かが問われている。仮に「働くのは、生活費を得るためだけだ」としよう。その場合には、働くことは、生活費を得るための手段にすぎず、働かなくても生活費が得られるなら、なにも無理して働く必要はない、ということになる。ところが、じっさいに、そうはならない。つい先日、TVで大阪のドヤ街の様子が放映されていたが、失業した60歳の日雇い労働のおっちゃんが「同じ酒を飲むのでも、(公的扶助のように)世間の世話になるのでなく、自分で稼いだ金で飲むほうがいいに決まっている」と語り、仕事がない辛さを語っていた。このおっちゃんの感じ方は、ドヤ街の住人のあいだで、例外的だとは思えない。働くことのうちには、たんに生活費を得る手段だということには尽きないものがある。