小泉 和子
2009年01月08日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2009年01月08日 |
小泉 和子 |
エネルギー・環境 |
地球環境 |
情報誌CEL (Vol.87) |
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水難の相
私は子供の時、占いの人に「水難の相がある」といわれたことがある。これがずっと気になっていたが、別に水難事故に遭うこともなく過ごしてきた。だがある時、「そうだ、水難は水難でも水に苦労する方の水難だったんだ」と気がついた。
まず最初は、戦争中、疎開していた鶴見の山の中である。昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲で焼け出され、親戚の農家の牛小屋を借りて、改造して住んでいたのだが、もともと牛小屋だったのでもちろん井戸などない。このため母屋である親戚の家の井戸からもらい水をしていた。水汲みは主に長女の私の役目、焼け出されてしまってバケツもなかったので、納屋から探し出した古い水桶を借りて、天秤棒で担いで運んだ。牛小屋のあった場所は、母屋からかなり離れた足場の悪いところにあったので、六年生とはいえ小学生の私にとっては重労働だった。雨の日など、草履―靴もなくて手製の草履を履いていた―が滑りやすく、うっかりすると尻餅をついてしまい、水はこぼす、服はびしょぬれ、泥だらけ、ということになってしまった。風呂はドラム缶風呂だったが、これも水を運ぶのが大変だった。
戦争が終わり、東京に戻った。大田区の羽田に工場を改造した家を借りることができたのである。だが、またもらい水生活になってしまった。もともと工場についていた水道管を使ったのだが、錆びていて、最初こそちょろちょろと出たが、やがてまるっきり出なくなってしまった。やむなく五〇メートルほど離れた隣家の水道から水を汲ませてもらうことになった。バケツは何とか手に入れたが、今度は敷地が瓦礫だらけで、ものすごく歩きにくい。ただ唯一幸いだったのは、隣のおばさんが親切だったことである。裏口を開けて「お水いただきまーす」と声をかけると、いつでも「どうぞ汲んでってください」といってくれて、ほんとにありがたかった。
ある時、水道の蛇口から水がジャージャー出ている夢を見たことがある。「あら、ほんとは出るんじゃないの」と思って喜んだら目が覚めた。この夢はいまでも忘れない。