林家 竹丸
2009年01月08日作成年月日 |
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2009年01月08日 |
林家 竹丸 |
都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.87) |
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坂田藤十郎に市川團十郎、中村吉右衛門、片岡仁左衛門、坂東玉三郎 ─ 。役者の名前はたくさん出てきても、ナマの歌舞伎は見たことない。そんな人、多いのではないですか?
室町時代の田楽・猿楽から始まり、出雲阿国の「かぶき踊り」が誕生したのは、時代が豊臣から徳川の世へと移りゆく頃。北野天満宮や四条の河原、人のぎょうさん集まる場所で踊りを披露したのがルーツだそうです。その後、今日の姿へと発展してきたわけですが、歌舞伎は決して高尚なだけの芸ではないことに気付かされます。落語の噺にも「仮名手本忠臣蔵」などを取り入れたものがいろいろあります。そんな歌舞伎と落語の接点を求めて京都へ足を運んでみました。
京都に着いて、最初に向かったのが、北野天満宮。ここは、前回取り上げた米澤彦八と並んで上方落語の祖と言われる、初代露の五郎兵衛に縁の深い神社です。今から300年以上前の貞享・元禄期、五郎兵衛は広い境内を横切る道端に舞台を設け、自作の「落とし噺」などを披露し銭を稼いだとか。
一方、歌舞伎も、それに先立つ慶長8年(1603)に出雲阿国が同社や四条河原で興行を打ったのが、その始まりと言われています。
境内を案内してくださった、禰宜の梶道嗣さんは「五郎兵衛の活躍時期の方が後れますが、太閤さんの大茶会以来、阿国歌舞伎が人気を博した流れの中でいろいろな芸能が出てきたのでしょうね」とおっしゃっていました。
長い戦乱の世が終わり、人々が新しい娯楽を求めていた ─ 。歌舞伎と落語の起こりは、そんな時代の要請だったのかもしれません。