二見 恵美子
2008年03月21日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2008年03月21日 |
二見 恵美子 |
都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
情報誌CEL (Vol.84) |
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「パブリック」が苦手な国家とその国民
「パブリックスペースの多様なたのしみ」について論じる前に、最初に「我が国でのパブリックと国民の成熟度」について私なりの考察をしてみたい。
異なる意味の理解に大きな開き
「パブリック」という言葉には空間概念がつきまとう。さらに「パブリック」には官立や国家なるイメージが濃厚に付随する。「パブリック・スクール」すなわち「公立学校」という間違った日本語訳が現在でも信じられている所以かもしれない。正確には英国ではパブリック・スクールは私立学校である。これではまったく概念も実態もまったく逆であると言わざるを得ない。
ゆえに非常に不思議なことではあるが、『パブリック↓公共↓国家、官立』なる図式が成り立ち、ひいては何やら窮屈なイメージがこびりつき、遂に人々は、パブリックに接することが苦手という現象が常態となっているのではないだろうか。
極端な例では、パブリックに対して国民、あるいは市民が牙をむき出して国家に対峙することも珍しくない。