菅谷 富夫
2007年09月30日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
カテゴリー |
媒体(Vol.) |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
2007年09月30日 |
菅谷 富夫 |
都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
情報誌CEL (Vol.82) |
ページ内にあります文章は抜粋版です。
全文をご覧いただくにはPDFをダウンロードしてください。
都市には建物と人だけが集まるわけではない。道が造られ建物が建てられる時、大阪には多くの美術作品が設置されてきた。ビルの一部として、また道を通りゆく人を慰めるため、さらには平和国家建設の願いのしるしとして。市民の手によって設置された多くの美術作品は、大阪という都市の厚みであり、豊かさの象徴であった。
美術作品が美術館で展示されることを前提に制作されるようになった歴史はそう長いものではない。美術館という制度が確立して以降、すなわち概ね二〇世紀と考えてよいのではないだろうか。それではそれまで美術作品はどこにあったのか。王侯貴族の宮殿や寺院、商工業者である大資産家の邸宅をかざっていたのはいうまでもない。しかし普通の市民たちが目にする美術作品は街の中にあった。ヨーロッパなら広場や噴水を飾ったことは、ご存知のとおりである。日本の近代化の先陣をきった大阪も街の中に多くの芸術作品を持ってきた。
街の中の多くの美術作品は立体作品(古くは彫刻作品)である。それも四〇〜五〇年前までのものは建築に付属するものが多い。そもそも彫刻の歴史が建築の装飾またはその一部として派生、発展してきたことを考えると、それも納得できることである。そこに建築家の好みが反映することはいうまでもない。
第二次大戦を挟んで大阪に多くの名建築を残し大阪の街並みをつくったとまでいわれる村野藤吾は建築にたくみに彫刻を取り込んでいる。心斎橋の今はなき旧そごう百貨店の外壁に付けられていた藤川勇造の「飛躍」や堂島の新ダイビルの羊の像などはその代表例であろう。そもそもが村野の建築の師匠である渡辺節が彫刻を生かした建築、ダイビルをつくっている。今でも中之島にかろうじて残っているこの建物の一階入口あたりには、当時の有名彫刻家・大国貞三の彫刻作品を見ることができる。