小泉 武夫
2007年06月30日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2007年06月30日 |
小泉 武夫 |
住まい・生活 |
食生活 |
情報誌CEL (Vol.81) |
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私の食育の考え方は、一般的なものとかなり違います。
では、どこが違うのかというと、具体的には、次のような点です。
第一に、食育という言葉が対象とするターゲットが違う。私は、食育というのは子供の教育ではなく、その原点というのは、大人への教育だと思います。なぜなら、今日、日本の子供たちを取り巻く、さまざまな食の問題は、私を含めた大人たちによってつくられてしまったものですから、それを直すのは、大人たちの責任だからです。
子供たちへの食育に当たってまず認識すべきことは、とても大切な教育をしなくてはならないのだということです。今、国は教育改革推進有識者会議などで、「素晴らしい、美しい日本」とか「日本の国を愛する子供たちをつくろう」とか言っているわけです。ところが、そういう風なことを言いながらも、実際には、日本の素晴らしい民族文の教育というものを全然やってきてはいません。本来ならば、食育の前に、日本の民族文化をキッチリと教えることが必要なはずなのに、それについては誰もふれていません。だから私は、日本という国は、非常に文化濃度の希薄なところだと、本当に思っています。
素晴らしい日本について教えたいなら、どうして小学校の高学年から英語を義務教育化する必要があるでしょうか。そんなことをやるよりは、日本に生まれた子供なのですから、日本の文化を教えることの方が重要だと思います。そういう基本的なことをやらないで、「日本の素晴らしい食育を呼び戻せ」と言ったって、実現は難しいことだと思っています。
そういう意味で、私は日本民族の文化というのは非常に食育と関係していると思います。民族文化というのは、その民族の住んでいるところにしか当てはまらないことだとか、その民族にしか語れないようなこととかです。こうした民族文化を失ってしまうと、民族としての価値がなくなります。例えば、EUが統一され、ユーロで全て事足りるようになり、パスポートもいらなくなっても、ただ一つだけ、彼らは絶対に統一しないという意識を持っているのが、実は民族文化なのです。このように民族文化というのは、その国の根幹をなす非常に重要なことなのです。
ただし、小学校の子供たちに英語を教えるなと言っているわけではありません。それよりも、せっかく日本人に生まれてきたのですから、日本の国語の素晴らしさとか、日本文化の素晴らしさを理解させてから英語の教育をしても遅くはないと言っているのです。