辰巳 芳子
2007年06月30日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2007年06月30日 |
辰巳 芳子 |
住まい・生活 |
食生活 |
情報誌CEL (Vol.81) |
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私は、若い頃に幼児教育を志しておりました。
特に子どもの概念の発達に興味を持っていたものですから、人間の「食」問題にたずさわっていても、「子どもの幸せ」ということは念頭から離れたことはありません。
現今、「食育」ということが浮上しております。食育は、教育全般に落ち着いて位置づけしなければなりません。
教育の目標とは何でしょう。私は、自分の生命は自分で守り育て得る、その基礎的な力を備えるのが教育の目標であると考えています。したがって「食育」も、この考えに準じて考えています。
食育のはじまりは、「これは食べていいものかうか」、「身の安全を助長するものであるか
どうか」、あるいは、「自分の身に危険をもたらすものであるかどうか」の食べ分けを教えることであり、これが一番大事だと思います。「食べていいものかどうか」、「腐っているものであるのか、腐っていないものであるのか」が分かるように教えることが大事です。
なぜ、そうしたことが必要なのかと言いますと、第一に、いつも親が「安全だからこれを食べなさい」という状況に子どもがあるとは限らないからです。何か特殊な状況が起こって、子どもが、もしかしたら一人でさまよわないといけないことがあるかもしれません。そういう時に、食べ分けができなかったら生きていくことができないからです。
第二には、自分のお腹を量って食べるということです。つまり分量の問題です。自分の健康のためには、どのぐらいの量を食べていいのかということです。そのためには、ものを食べた時に、自分の命への手応えを子どもに感じさせることが必要です。
これらのことは、人として基礎の基礎だと思いますが、残念ながら今は大人たちで食べ
方を誤っている人が多いので、その基礎すらできていません。
それはなぜかと言いますと、現代は、食べたものと自分の命との関係を、栄養学的または医療的数値を知ることとかで分かろうとしがちだからです。しかし本来は、そんなことで命の状態を知ろうとするよりも、生物として本来持っている、何かを食べた時の自分の身体の暖まり方とか、お腹へのもたれ方とか、ご飯を食べて少ししたら自分に元気が戻ってきたか否かとか、そういう自分の命への手応えを、自分の身体に起こっていることを感じようとする、そのような感性を育てる必要があるということです。