奥村 彪生
2007年06月30日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2007年06月30日 |
奥村 彪生 |
住まい・生活 |
食生活 |
情報誌CEL (Vol.81) |
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典座教訓・赴粥飯法
道元著、中村璋八・石川力山・中村信幸訳注 講談社学術文庫 一九九一年
私は食育という言葉は嫌いである。体育なら判るが、あまりにも短絡的すぎて意味不明である。食べ物が満ち溢れている時代に食を育ててどうなるのか。家庭料理が崩壊し、食物の自給率も四〇パーセントを割り、伝統的な日本の郷土の味が伝承されることもなく、国籍不明の料理がはんらんし、味の個性も失われ、均一化された味の物を食べるという悲しむべき状況に日本は陥っている。しかも、食べ過ぎ、飲み過ぎのために生活習慣病が子供の世界にまで蔓延するに至った。
それを是正するために食生活を改め、かつ健全なる農林水産業の振興をはかり、自給率の向上と消費拡大をすすめる。そのためには人の教育こそが重大事。となると食育でなく、食教育であろう。もっと判り易くいえば「食べごとの教育」であろう。
食べごとの教育は、単なる料理づくりだけではない。歴史、文化、食事マナーも含めた人とのつき合い方、食材づくりの大切さ、そして食空間を含めた環境に配慮することも教え、学ぶ、全人格的教育の土台であると私は確信している。
食べごとの機能は、単に生命をつなぎ、成長ならびに健康を促進するだけではない。疲れた時に甘い物を食べながら茶を飲むとホッとするように、心を癒す精神的機能もある。食べる悦び、その味に感動する。そのことにより感謝の気持ちが湧いてくる。