神野 直彦
2006年09月30日作成年月日 |
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2006年09月30日 |
神野 直彦 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.78) |
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統治放棄としてのアクラシー
危機に陥った社会では、将来に対する期待が喪失する。二〇〇四年(平成一六年)六月に内閣府が発表した「安全・安心に関する特別世論調査」によれば、「今の日本は安全・安心な国か」という問いに対して、「そう思わない」という回答者が過半数に達している。しかも、その理由の第一位は、六五・八パーセントの回答者が指摘する少年非行や、自殺などの社会的病理現象が発生していることにあり、第二位は、六四・〇パーセントの回答者が指摘する犯罪などによる社会秩序の乱れにある。つまり、日本国民は暗雲のように垂れ込めている社会的危機という不安に脅えている。
しかも、こうした社会的病理現象や社会的秩序の乱れの背後には、格差や貧困が
存在することが明らかになってきている。弱肉強食、優勝劣敗の競争原理にもとづく市場経済が、格差を生み出すのは当然の結果である。小泉政権は格差拡大が指摘されると、格差それ自体は悪ではないと開き直る。
さらには、内閣府は格差拡大を認めた上で、それは格差の大きい高齢層の比重が増加するという人口構成上の変化に起因していて、実質的な経済格差を意味しないと嘯いている。
確かに、格差の存在しない社会など存在しない。しかし格差拡大は社会に亀裂を走らせ、社会的病理現象や社会的秩序の乱れを生じさせる。もちろん、社会的対立と抗争が激化すれば、市場経済も機能不全に陥る。政治の任務は、こうした社会的亀裂を解消して、社会統合を図ることにあるといってよい。