茂木 健一郎
2005年03月15日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2005年03月15日 |
茂木 健一郎 |
エネルギー・環境 |
エネルギー・ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.72) |
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たき火の形は、一瞬たりとも同じであることはない。炎は踊り、姿を変え続ける。そのように絶えず変化する火を見ている時に、心の中に喚起される原始的感情の中には、有史以来の人間の記憶が反映されている。
カナダの森の中で、一週間カヌーを漕いだことがある。夜になると落ちている枝を集めて、たき火をした。熊が来るというので、食料はコンテナに密閉した。さすがに熊が来るとまでは思わなかったが、何やら動くものの気配がする度に身構えながら、確かなぬくもりをもたらしてくれる炎を見つめ続けた。炎から夜の湖に目を転じると、昼間はあれほど遠くに見えた対岸の山が、手が届くほどすぐそこにあるような感じがした。たき火の明かりが、対岸を照らし出さないことが不思議なほどだった。
大自然の中でたき火を囲む体験に、特権的な意味があると言っているのではない。都会の真ん中で、ふと灯すライターの炎にも、家の中でひねるガスコンロの火にも、私たちの脳は特有の強い印象を受ける。しかし、暗黒に囲まれて気配をうかがいながら炎を見つめる時間の流れには、やはり独特の感覚がある。炎を灯した瞬間、周囲の暗闇が明らかに変質するのである。
屋外でたき火を見つめるという時間の流れは、文明を発達させた現代でこそ例外的なものだが、人類の長い歴史をふりかえれば、むしろそれが通例のことでもあった。人類共通の「思い出せない記憶」の中に、暗闇の中で炎を見つめる体験は強く刻印されている。カナダの湖の畔で、私の中からわき上がってきたものは、そのような「思い出せない記憶」だったに違いない。