松原 正明
2005年03月15日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2005年03月15日 |
松原 正明 |
エネルギー・環境 |
エネルギー・ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.72) |
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炎を見つめる生活の価値
僕たち家族は冬枯れた雑木林に建つ小さな週末住居で2000年1月元旦を迎えようとしていた。唯一の情報源であるラジオからは、年明けとともにコンピュータのプログラム異常でライフラインが一時途切れる可能性があるとのニュースがながれている。その時期、世界中で話題になっていたいわゆる2000年問題である。外は零下にまでなる人里離れた粗末な小屋だが、僕たちは何の心配もしていなかった。食料に水、そして目の前の薪ストーブと軒下にたっぷりある薪さえあれば、しばらく世間が慌てている間、のんびりできそうだとむしろ楽しんでさえいたのである。
今から6年前に一大決心をして、実家の近くにある福島県西郷村の里山に週末住居を建てた。自宅は賃貸暮らしのままだからちょっと普通ではないが、どうしても雑木林の中で生活する時間を持ちたかった。東京での暮らしは、電気がなければ照明はもちろん、暖房、給湯、煮炊きすらままならない。子どもたちはテレビとコンピュータゲームに夢中で、食事の時間の会話は途切れがちだった。テレビの代わりに薪ストーブが中心になる暮らしをしたいと切実に思った。なによりそれが子どもたちのためにもなるだろうと思ったのだ。
山荘での暮らしは火との付き合いが中心となる。薪ストーブに始まり、火鉢、七輪、焚き火台、ダッチオーブンなど、よほど物好きな人でないと持っていないものばかりだ。それで暖を採り、湯を沸かし、食料を焼く。灯りを暗くして薪ストーブの中でゆれる炎が家族の顔を照らす。ゆったりとした時間がながれ、家族の気持ちが寄り添うのがわかる。子どもたちは不思議なことにテレビがないことに不満は言わない。初めはおそるおそる自分たちでマッチを擦って焚き火をしていたが、最近では焼き芋を焼いたり、消えそうなストーブに薪を継いだりするようになった。薪ストーブのある暮らしが当たり前になり、火の扱いを自然に覚えていった。