鷲谷 いづみ
2004年12月25日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2004年12月25日 |
鷲谷 いづみ |
都市・コミュニティ |
まちづくり |
情報誌CEL (Vol.71) |
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水の感覚
私たちヒトは、さまざまな感覚によって、環境のよしあしや安全性を無意識のうちに判断している。水によって呼び覚まされる感覚は、心地よさ、爽快感、安らぎ感などを介して私たちの気分を支配する。それは、野生の感覚といってもよいようなものであり、ほ乳類の一種であるヒトが、太古の昔からさまざまな環境リスクを回避して安全に生き抜くためになくてはならないものであった。人工物に囲まれて生活している現代の私たちは、そのような野生の感覚を萎えさせてしまっているが、それでも、自然物、人工物、あるいはその組み合わせからなる環境を無意識のうちに感覚で捉え、感情レベルで好悪こもごもに反応しながら暮らしている。
野生の感覚が萎えているといっても、水辺の環境を見分ける私たちの感覚は、今でも相当に鋭いものであると思う。私たちは、水が澄んでいるかどうかで、その清さを本能的に判断する。澄んだ透明な水であれば心が安らぎ、また爽快感を感じることができる。それに対して、濁った水や色のついた水には不安を感じ、不快感にとらわれる。理化学的な測器や測定法を用いなくても、視覚で水の表面をなでるだけで「水質を測る」ことができるほどの鋭い感覚が私たちに備わっているのは、野生の生活では、水の安全性を感覚で判断することが生死の分け目にもなるほどの重大事だったからだろう。つまり、水に関する感覚は、何十万年ものホモ・サピエンスの野生の生活が、私たちに残した適応進化の賜であるといえるだろう。