村上 康成
2004年12月25日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2004年12月25日 |
村上 康成 |
都市・コミュニティ |
まちづくり |
情報誌CEL (Vol.71) |
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山里の釣りから
内山 節 著 日本経済評論社 一九八〇年
水辺の水とは…。
魚を釣ることだけが目的なら釣り堀で釣ればよい。釣り遡行とは、山、川、村、そして釣りによってかたちづくられる空間に人間が接触すること。
著者は語る。私は山里に釣りに行くという意味を考えたかったのだと。山里という人の棲む村で釣る、ということを。
そうなんだあ。琴線に触れたのだった。
魚が釣れればいい、そういうことではないのだ。その「憧れる一匹のヤマメ」が棲んでいるという実感を皮膚で歓ぶことなのだと、ぼくは思う。
で、現実として釣り歩くとき、いろいろな問題と遭遇していく。川は誰のものなのか、などと。たとえばダム建設による生態系の一変。一変というより生態系そのものの死滅。本来、海と川を行き来していた魚たちが、その生態を全うできなくなってしまった事実は多々歴然。
川の思想には水の思想と流れの思想があり、川の思想を水の思想に一元化していくとき、流れの無視は必ず川の荒廃を招くと、著者は考察していく。いったい何の権利がこの人間社会にあるのだろうと。
死んだ川の流れに心嘆くばかりで、そこからのポジティブな発展はハリボテであろう。ぼくはそう思ってしまう。
健やかな水の流れ、そこに育まれた命によって身も心も生かされている。ぼくはそう信念する。
さらに本書は、なぜ現代社会では自然と人間の共存がはかれないのかを考察していく。労働である。労働は、自然と人間との交歓に戻らないかぎり、自然保護、環境保全は空論に終わると。