小林 郁雄
2004年06月30日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2004年06月30日 |
小林 郁雄 |
都市・コミュニティ |
まちづくり |
情報誌CEL (Vol.69) |
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時の話題 Commentary
都市再生機構は何を再生するのか
小林 郁雄 Written by Ikuo Kobayashi
国土の均衡ある発展という全国総合開発計画のまやかし
日本の戦後の国土計画は一九六二年(昭和三七年)に全国総合開発計画が閣議決定され、〈全総〉として拠点開発方式の「新産業都市」の開発推進以来、一貫して大都市圏、とりわけ東京への人口・産業の集中から、地域分散・国土の均衡ある発展がテーマであった。
一九六九年の〈新全総〉では、高度経済成長を背景とした「大規模開発」が打ち出されたが、七〇年代のドルショック・オイルショックの影響によって、一九七七年の〈三全総〉では安定経済成長に対応した「定住圏構想」が、バブル経済下の一九八七年の〈四全総〉では「多極分散型国土構築」が、さらに一九九八年の〈五全総〉では「多軸型国土構造形成」がうたわれてきた。
いずれも、国家経済計画を背景にした、地域開発の均衡化を目指した国土計画といえるが、四〇年間の試みは高度成長やバブル期には中央へ集中する国富の配分としては機能したが、安定成長やマイナス期にはその構造的限界を明らかにし、中央一極統治型政治経済社会の改革にはならなかった。
国家経済振興を前提にした国土計画である以上、この結論は当然の帰結である。国土の均衡ある発展という名のもとに、各地域の発展によって国家経済の最大化を目指す以上、首都圏一極集中管理がもっとも効率がよい。日本の国土計画は国家経済計画に他ならなかった。
それでは、まやかしではない〈二一世紀の国土のグランドデザイン〉とは何か?
地域主体による、地域主権に基づく地域自律社会(特に地域経済)の確立であり、そのための「都市再生」である。
住宅建設から都市再生への転換
一方、戦後の住宅政策も、これまた一貫して、居住政策というより経済政策であった。戦後の絶対的住宅難を解消するため、住宅金融公庫法(一九五〇年)、公営住宅法(一九五一年)、日本住宅公団法(一九五五年)という日本の住宅供給を現在に至るまで支えてきた三本柱が、昭和二五年から三〇年まで戦後五年から十年の間に整備された。これらによって高度成長期にかけて住宅政策に要請されたのは大量建設であった。そして、それはまた、日本の経済成長を支える最大の内需でもあった。もっとも重点が置かれたのは、公庫融資による持家政策で、家計から資金を引き出し、住宅金融市場を拡大させ、関連産業への波及効果を誘い、公庫融資という公的投資を通じて何増倍かの大量の民間投資を誘い出す機能を果たした。