栗本 智代
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2002年04月15日 |
栗本 智代
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都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.61) |
石畳の坂道、本瓦葺き、長屋が対面する細い路地で「こんにちは」と声を掛け合う住人たち。大阪には、戦前に建てられた町屋や路地など、伝統ある住空間が残されている地域がいくつかある。既存の長屋を維持するには問題が多く、例えば、現在の建築規制では、路地にしか面していない敷地には新たに建築もできず、老朽化した長屋を解体して更地にしても、建築許可が出ないため空き地になったままになる。入居者がいないままだと老朽化は進む一方だが、空き部屋はなかなか埋まらないという状態である。
そんな中で最近、外部からやってきたアーティストなどが古い家屋を借り、改装して入居するという例が増えてきた。特に、空堀商店街界隈、谷町六丁目あたりでは、貴重な遺産の再生と商店街の活性化を目指してイベントも開催され、住民の意識も変化しつつある。
コラム 空堀の歴史
天正十一(一五八三)年、豊臣秀吉が大坂城築城の際、南面防備のために三の丸の南側に掘った外堀が、今の空堀商店街の東西のラインになる。つまり、ここから北側は大坂城内となり、現在の松屋町筋、谷町筋、上町筋に南向きの門があった。慶長十九(一六一四)年、大坂冬の陣の後、和睦の条件として家康が二の丸まで壊したため、堀もなくなってしまった。今「空堀」という名前だけがその歴史を語る。
空堀の商店街は、明治期末頃、空堀地蔵の定期市を契機に自然発生的に商店街として発展してきた。大正十四年、西賑町に鉄筋二階建ての賑町公設市場が開設され、道路幅が拡張され六メートルとなった。これが現在の空堀商店街の原型であり、商店街や周辺の長屋や路地などは、戦災をまぬがれ、まちの形が現在まで残されている。