栗本 智代
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2002年01月31日 |
栗本 智代
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都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.60) |
もともと泥田と墓地が広がっていた梅田は、明治期以降、駅の誕生や移転をきっかけに、大阪キタの玄関口になり、人・モノ・コト、文化情報のジャンクション(結節点)として、急速な発展を遂げてきた。そして現在も変り続けている。
昨年、JR大阪駅の北側にヨドバシカメラがオープンし、梅田の景色も人の流れもずいぶんと変化した。梅田は、行政以外にも、主に阪急、阪神の先導によってまちづくりが行われてきたが、今日では、さまざまな資本や企業が独自の方針で施設や場を開発し、梅田界隈の多様性を生み出し、その各々が独立した盛り場として個性を発揮しつつある。その中で、梅田が発展するもともとの契機となった「駅」本来の姿が見えなくなってきている。今回は、駅や鉄道を基軸に、梅田のあゆみを掘り起こし、これからの有り様についても触れてみたい。
1.明治以前の梅田
現在のJR大阪駅周辺、特に西方はもともと「曾根崎村」と呼ばれたが、明治三十年四月、大阪市域が拡張され接続町村編入のときに、大阪市に入り北区に属した。このあたりは人家もなく、田圃が広漠と広がっていた。「梅田」と呼ばれたのは、このあたりの田畑池沼を埋め立てたことから「埋田」の名が起こりさらに「梅田」になったという。地主が「梅田宗庵」という人であったからという説もある。当初「梅田」と呼ばれた区域は、古地図から推測すると、現在の堂島三丁目あたりから梅田貨物駅までの範囲になる。近松門左衛門の作品にもよく登場する「梅田橋」は、現在のNTTビルの北西の辻にあたり、近辺に「梅田橋ビル」という建物も現存している。
大阪城落城後の元和元年、寺院と墓地の移転廃合が行われた際、天満にあった墓地が一部移されて「梅田墓地」ができた。場所は、現在の梅田貨物駅の南あたりになる。このあたりは、毎年旧暦の五月五日(端午の節句の日)、花嫁衣装のように美しく着飾った牛を、終日、堤の上を意のままに駈けさせるという<牛駈け>で有名であった。牛は大好物の草萌の中を歩きまわり、農夫たちは牛飼唄をうたった。集まった見物客に、牛飼いたちは、節句の当日というので御祝儀に粽(ちまき)を撒き散らした。それを拾うと天然痘が軽くなるという言い伝えがあり、非常にのどかな情景であった。