栗本 智代
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2001年07月31日 |
栗本 智代
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都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.58) |
はじめに
国際色豊かな“猪飼野”界わいは、大阪のもう1つの顔である。
“猪飼野”の地名は現在の地図にはないが、JR 鶴橋駅・桃谷駅の東方、平野運河の両側一帯あたりがおおよその位置である。在日韓国・朝鮮人の街として有名だが、このまちに定着した事情をはじめ、古い歴史や地名の由来などは、一般にはあまり知られていない。
“猪飼野”は、異文化が同居する味わい深いまちである。数々のエピソードがあり研究領域も幅広い。今回、旧村の歴史や史跡、猪飼野と在日韓国・朝鮮人との縁などを調べ、現在ここで生きる人々の活動や思いを取材するうち、大阪の中でも珍しいほど、歴史的文化的な歩みが、まちや人々に深く刻まれているのを痛感した。この地域の営みそのものが、個性あふれる資源であることをお伝えできればと思う。
1. 猪飼野の成り立ち
猪飼野の地名の由来は、「日本書紀」仁徳十四年条に記された「猪甘津(いかいつ)の橋」に求められる。「冬十一月為橋於猪甘津即号其処曰小橋也」(猪甘の津に橋わたす、すなわち其のところをなづけて小橋という)という記事があり、「猪甘」は、猪飼・猪養と同意で、朝廷に献上する猪を飼育していた猪飼部(いかいべ)の住居地であったと考えられている。
この「猪」は、野生のイノシシではなく、渡来人が大陸から持ち込んだブタであるという説が有力である(注)。“猪甘津”は、旧平野川の河口付近にあった港で、そこに交通路としての橋が架けられたということである。これが文献上日本最古の橋である「猪甘津の橋」で、後の「鶴の橋」だと伝えられている。猪飼部は、飛鳥時代以降、殺生を禁ずる仏教の教えが普及するのに伴って消滅し、地名だけ残ったらしい。
このあたりは、百済からの渡来人が多数居住したと考えられている。百済国は663年、唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされ、百済から大勢の人が日本へ渡来し、百済王一族が難波に居住したことが、「日本書紀」天智3年条に “百済王善(禅)光王以て難波に居べらしむ”と記されている。その最初の居住地が今の天王寺の東部であり、この一帯に、百済郡ができたと考えられている。現在も地名が残っている。