豊田 尚吾
作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
カテゴリー |
媒体(Vol.) |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
2001年07月01日 |
豊田 尚吾
|
都市・コミュニティ |
地域ガバナンス |
CELレポート (Vol.10) |
本書は、日本社会における「中流崩壊」をテーマに、識者の論考を集め、とりまとめたものである。書き下ろしではなく、各種雑誌、新聞等で既に公になったものなので、基本的にはそれぞれの論文は独立している。逆に言えば、各人独自の問題意識と専門性で「中流崩壊」(というよりむしろ、より広い意味での不平等化か?)について語っているので、論争と言うよりは放談に近いような気もする。ただし、偏った編集はされておらず、バランスはとれている。
本書によって、「中流崩壊」に関する論考が概観でき、かつそれらが?所得格差に関する不平等化(主に経済学・実証の観点から)、?世代間の地位再生産(親がホワイトカラーなら、子もホワイトカラーといったような事象。主に社会学・実証の観点から)、?世
代間の学歴再生産(親が高学歴なら、子も高学歴といった事象。教育社会学の観点から。ただし本書では中心的論点にしていない)、?階層化・階級社会化に関する是非やあるべき姿論という4つに分類できると感じた。一方で、それぞれが独立しているようで、歪に関係しており、違和感も持った。評者の感覚は、本書の最後に登場する山崎正和氏の「平等観ある社会へ」中にある一節に非常に近い。「…論者たちの分析にも前提に矛盾があったり、概念の混乱がめだったりする。こうした報告に触れると、はしなくもわれわれがまだ不平等とは何か、どんな意味でそれが問題なのかという、確かな哲学を持ち合わせていないことに気づくのである。議論が曖昧になるのは、第一に不平等が純粋に客観的な事実ではなく、たぶんに感覚的な社会通念の問題だからである。…(p282)」山崎氏の「不平等とは客観的な事実ではなく」を、評者なりに言い換えれば、不平等とは一種の「構成概念」であり、それだからこそ、その存在の導出と妥当性の検定に関する地道な研究や、研究を基礎にした不平等に関する一般的なコンセンサスを得る努力が不可欠なのである(拙稿、「構成概念の導出と妥当性の検定」を参考にしていただきたい。CELサーチ収録済み)。不平等とは何かという哲学に関する議論の厚みがないままに、一見客観的な数値をいじくりまわして議論をしても、上辺だけの議論にしかならないことは確かである。