豊田 尚吾
作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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媒体(Vol.) |
備考 |
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1999年10月01日 |
豊田 尚吾
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都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
CELレポート (Vol.3) |
●本書の伝えるメッセージはわかりやすい。「マイノリティについて自由に語ろう」(pp12.)ということである。それを本書で実践しているため、いくらでも批判可能な内容となっている。例えば、引用文献が偏っていて論証が説得的でない、自身の“感覚”を前面に出しすぎているなどである。実際、筆者も本書の主張や見解に対して多くの異論がある。また結論も、「まず個別の接触体験を深める(「慣れる」)というところにしかないのである」(pp218.)と、著者自身が認めるように「あまりぱっとしたことは言」(pp217.)っていない。しかし、本書を読んでいると、著者も自由に語るから、反論でも賛同でも何かメッセージを返してくれ、と言われているように感じる。そしてそのとき、建前でなく、どの様な本音で自分はそれに応えられるのか、と考えながら読みすすめていくとおもしろい。
●そういう意味で各章は、ある命題を論証する過程と言うよりは、様々な問題提起であると理解した方がよい。第1章では、現在弱者としてカテゴライズされている人たちが本当の弱者なのか、それはずさん杜撰な分類であり、もっと個別性を重視するべきではないか。また厳しい現実に対し、前向きに対峙することは大事だが、あまりに積極的に問題をとらえすぎると、重要な論点を見落としてしまうことになる。このような問題を、ベストセラーの「五体不満足」や、出生前診断による中絶問題など、具体例を挙げながら論じている。第2章では、平等も個性もという、虫のよい建前平等主義からくる過剰配慮で、弱者が聖化される(誰も批判を加えられなくなる)。そして実態がかわりつつあるという現実が省みられることなく、差別が観念化していく。このような問題に関し、同和問題を中心に論じている。第3章では、第2章で論じた弱者聖化を超克するためには、内心に対する不断の問いかけが必要だと主張する。腐臭を漂わす浮浪者を忌避するという、自身の“感情”から目を背けることなく、同時に「彼は○○の出だから」という“無知で露骨な感情表現に対する嫌悪”も併せ持つ。このような二重性の意識(著者は矛盾した意識とも表現している)を常に持ち続け、自分に問いかけろと言う。最終章では、今までのまとめとして、既成概念を見直し、旧来の弱者観の拘束から脱却するとともに、旧来のカテゴリーには入らない新しい弱者に対する配慮を論じている。