安達 純
1999年09月30日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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1999年09月30日 |
安達 純 |
エネルギー・環境 |
地域環境 |
情報誌CEL (Vol.50) |
前号でご紹介した大阪市立大学とC E L の連携による公開講座「未来都市を語る― 生活・文化・環境と経済社会」の全日程を盛況裡に終えることができた。住み、働き、学び、そして集うという、まさに生活の舞台である‘ 都市’ に寄せる学生や市民の関心の高さにいまさらながら驚くとともに、さまざまな視点から問題提起をしていただいた講師の先生方に心よりお礼申し上げたい。
さて、本号で取り上げたテーマは‘ 環境’ である。「われわれが、これまでと同じような生活を続けていくならば、1 0 0 年もしないうちに人類は滅亡するであろう」といった、いささかショッキングな内容の「ジオカタストロフィー」で、C E L が警鐘を鳴らしたのは1 9 9 1 年のことである。それから8年が経過した今、何かが変わったのだろうか。世界規模でC O 2 の削減目標が掲げられ、その達成に向けての取り組みが始まったことは、確かに大きな前進であろう。しかし、その一方で事態はますます深刻の度を増している。
その徴候のひとつが‘ こころ’ の問題である。生命誌研究館副館長の中村桂子氏に次のような指摘がある。「科学技術は、人間を自然の脅威や面倒から解放し、人間の生きもの離れ、自然離れを目的とするかのように人工物を生み出してきた。今では、私たちの日常は人工物の中で営まれている。その快さを楽しむ私たちだが、近年、環境破壊、つまり外の自然の破壊が大きな問題になってきただけでなく、人間の内なる自然も破壊されつつあると思わせる現象が目立ってきた。合理性だけを求めて進めてきた人工社会が、3 5 億年を越える生きもののつくる世界と合わないことが見えてきた」と。私たちのこころの中の、あるいは普段は意識にさえ上らない奥深いところに宿っている原風景ともいうべき自然を、自らの手で破壊してしまうことが、私たちの精神に歪みを与えずにはおかないということであろうか。こうした流れに歯止めをかけるには、一体どうすればよいのか。中村氏は、人間のヒトという部分、つまり自然の一部である部分を認めることから出発すること、そして、自然・人・人工が一体化することの必要性を強調している。そうであるとして、そのための具体的な道筋をどこに求めればよいのだろうか。