豊田 尚吾
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1998年11月28日 |
豊田 尚吾
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都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
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はじめに
グローバル・スタンダード論は、評価すべき視点と、注意すべき問題点の両方を持っている。この小論ではまず、グローバル・スタンダードという「言葉」が、明確な定義づけもなく用いられ、混乱を招いていることを明らかにし、同時に日本人に昔からつきまとっている不健全なメンタリティと関係が深いことを示す。そして次に、発想を転換して、より積極的な意味での「グローバル・スタンダード」の確立を訴える。それは地球規模で何が正しいかを判断する姿勢のもと、ルール化されるものであり、その例として、経済倫理や環境・エネルギー問題を取り上げる。
1.混乱するグローバル・スタンダード論
一人歩きする「言葉」
グローバル・スタンダードという「言葉」は、一種のはやり言葉となっている。そして、それが一人歩きしつつある。つまり多義的になり、使う人ごとに表す意味が異なってきているのである。
まず、グローバル・スタンダードなる言葉は、和製英語であることをはじめに確認しておく必要があるだろう(フクシマ[1998])。「世界に通用するルール」を意味するというのが一般的な理解であるが、造語であるだけに、この言葉に対する本来の定義は存在しない。結果として、これを用いる各人の、思い思いの解釈が前面に出ることとなる。具体的には、第一に、スタンダード(標準)を「規格」と見なす者がいる。ISOや国際会計基準、場合によってはデファクト・スタンダードなど、世界規模での「規格化」を意味するという理解である。つまり、グローバル・スタンダードに従うことが、国際競争に参加するための条件、すなわち義務ととらえる。第二に、「手本・模範」と考える者がいる。現在好調な経済システム、具体的には英米の経済理念や経営方法を取り入れることであり、グローバル・スタンダードに従うことが国際競争上、有利だとの主張である。第三に、「いちばん普通のあり方」との理解がある。先進国の多くが採用している制度などに従わなければ、国際競争上不利になるとの考えである。背景には、多くが認めるからにはそれだけの合理性が存在するだろうとの判断がある。第二と第三の違いは、前者が好調なシステムを見習おうという観点から、英米型に焦点をあてているのに対して、後者は多くに支持されているものが善であるとの観点から、先進国の多数が実施しているかどうかを重視していることである。