情報誌CEL
記憶を未来につなぐ、減災へのエスノグラフィー
作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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媒体(Vol.) |
備考 |
2010年01月08日
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岩崎 信彦 |
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情報誌CEL
(Vol.91) |
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阪神・淡路大震災の15年目を迎えるにあたって、2005年の「大震災10年」を思い起こすことから始めよう。「10年ひと昔」というが、たしかに10年は一つの節目であった。私が震災直後から復興支援に参加した鷹取東地区で、ずっとテレビのドキュメントの題材になることを受け入れてこられた家族4人を亡くされたMさん夫婦とご主人を亡くされたTさんが、10年を境にそれを止められた。また、私たちは11年目に震災で障害を負った方々の集いを開いたが、そのよびかけの過程で、講演などされてきたある震災障害者の方が「10年を機に震災から離れふつうの生活者になる」と言われて参加を断られた。
これらの意味するところはおよそ明瞭であろう。震災をもはや過去のものとし、新しく未来を向いて歩んでいこう、ということである。この10年間は、家族の死や自分の震災障害は過去のことではなく、その時々の現在進行形の悲しみであり苦しみであった。しかし、もうそれを過去のものとして位置づけて乗り越えていかなければならない時がきたのだ。それが10年の節目だったのである。
しかし、その節目を区切れない人たちもいた。中学3年生の時に地震でピアノの下敷きになり高次脳機能障害になった女性とその母のKさんである。震災で障害を負っても、行政は「身体障害1級」相当者のみを救済対象とし(阪神・淡路大震災で60名)、あとは一般的な障害者行政にゆだね、被災障害者という困難な事情には何も手を差し伸べなかった。世論も「命があっただけで満足せねば」という風潮があった。Kさんは孤立無援の中で必死に娘を支えて生きていた。震災障害者の集いが始まって4年近く、今は毎月1度、「よろず相談室」で数名の震災障害者が交流を行っている。とくに同じ高次脳機能障害を負った娘さんの家族Oさんたちと出会い語り合う中で、Kさんと娘さんはしだいに元気になり、前に向かって歩みを進めている。震災15年は彼らにとって、一つの区切りの年になるかもしれない。