多木 秀雄
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2010年03月10日 |
多木 秀雄
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住まい・生活 |
その他 |
新聞・雑誌・書籍 |
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昨年12月、京都の南座で吉例顔見世興行を観た。演目「封印切」では坂田藤十郎演じる忠兵衛と、これを挑発する片岡仁左衛門演じる八右衛門とのやりとりを中心とする舞台に引き込まれた。人はよいが弱さを持つ忠兵衛に対する嫌みな性格の八右衛門、藤十郎と仁左衛門という名手が、声の抑揚や目をはじめとする全身を駆使して感情を表現し、掛け合いが心地よく展開する。沈黙の間合いも、客席の観客の想像が膨らむ時間を読んだ、抜群のタイミングである。
そして、舞台と客席からの反響とが一体となって幕切れに向けて雰囲気が高められてゆく。仁左衛門の巧みな話術による八右衛門の挑発に乗り、藤十郎の忠兵衛がお金の封を切る場面、次第に熱を帯びてゆき、いよいよこれまでという時点での決断を全身を使って演じ、クライマックスへと向かう。二人による人物描写を中心としつつ、舞台にいる役者それぞれの表情、動作もまた雰囲気を盛り上げる役を果たし続けている。花道から登場して観客を喜ばせ、花道への引込みにより観客に感動と余韻を残す。最後に、七三で藤十郎が、忠兵衛の心の葛藤をみごとに表現し、観客も息をころして見、双方が近距離で一体化する。磨き上げられた芸、練り上げられた演出と客席も同化した緊迫感は一つの美であろう。
さて、もう一つ、毎年必ずと言ってよいほど幕切れに“美学”を感じるものがある。春と夏に甲子園球場で開かれる高校野球である。ここには、台本はなく、高校生の真剣なプレーが創り出す
“美学な”幕切れがある。淡々とイニングが進んでゆく試合でも、いつ幕切れに向けての序章が始まるのか、どきどきしながら観戦する。よく「一球のこわさ」、「ワンプレーのこわさ」が語られるが、まさに、幕切れにつながる「一球」、「ワンプレー」がある。高校野球は、どんなに点差が離れても、油断も諦めもしない。最終回あと一人というところから、幾度もどんでん返しが起こっている。しばしば序章は突然終わり、幕切れがやってくる。その瞬間、グラウンドに砂煙があがり、一瞬の静寂の後、キャーという歓声と叫び声のこだま。抱き合って喜ぶ勝者とグラウンドに伏したまま、またベースを抱いたまま無念さに涙する敗者。この情景に重なって、試合終了を告げるサイレンが鳴り響き、両校に大きな拍手が送られる。この幕切れの一連の情景には、ほんのひととき前までの熱戦との対比で、何と言ってよいかわからない複雑な気持ちが入り混じった“美学”を感じるのである。
一つのボールを扱うプレーにより全体がつながれる野球に対し、歌舞伎でも「見えない」ボールが授受されてストーリーが展開していると感じる。舞台で演じる人と観客とが共に心を震わせることによる感動的な余韻も共通した幕切れの醍醐味であろう。
多木秀雄
(季刊 上方芸能
176号 (2010-6), 平成22年6月10日「上方芸能」編集部発行, 65p)