下村 純一
2010年07月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2010年07月01日 |
下村 純一 |
都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.93) |
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姫路から北へ30kmほどの山間の地に、平安時代には銀の採掘が始まっていたと伝わる「生野銀山」がある。明治元年の国有化と同時に、政府はコワニエらフランス人技師十数名を雇い、採掘から精錬まで当時の最新技術の導入をはかる。日本の鉱山近代化の草分け的存在のひとつが、生野であった。そのため周辺には、幾つもの近代化遺産が残されている。
そのひとつに、生野から10数km離れた朝来地区に架かる神子畑鋳鉄橋がある。明治18年竣工だから、相当に古い代物だ。兵庫の山奥深くに、日本最古の全鋳鉄製の橋があることを本で知った時、どうしてそんな地に当時の最先端橋梁を苦労して架けたのか、不思議でならなかった。実は、この神子畑には、さらに奥に位置する明延鉱山の選別所が造られ、そこから生野まで16kmに及ぶ運搬路が、神子畑川を縫うようにして開かれたのである。初めは牛車、次にはトロッコが導入されたが、ともかく重い鉱石に耐えうる橋が必要となった。そこで日本初の全鋳鉄橋が登場したのだ。全部で4橋あったが、現存するものは神子畑と羽淵の2橋、ともに横須賀製鉄所で造られ、土木技術に長けたフランスからの技師の指導で架けられた。
訪れた日は、あいにくの雨だった。けれども鋳鉄橋は、濡れそぼった肌の黒光りで、かえって存在感を増していた。何よりも雨に強い鋳鉄だからこそ、その後の長い年月を生き延びてきたことを目の当たりにして、鋳鉄という素材を選択したフランス人の慧眼を思わずにはいられなかった。
雨は、鉱山という産業遺産に似つかわしいと言ったら、不謹慎だろうか。近代化によって拡張された鉱山入口に、コワニエが築いた石造りアーチがある。その幾何学的な切り石も、雨に濡れて、まるで昔からある構造体のように山に馴染んで見える。実際の操業では水は天敵なのだろう。だが閉山した今、雨に煙る山を背に、坑道アーチは、まさに一幅の絵と化している。
そんな感慨にふけりながら、想いを巡らせた。明治政府は様々な分野で近代化を果たすべく外国人を招聘した。地質学では、化石発見で知られたモースやナウマンがいるが、ここ生野では何故フランス人だったのか。その中心人物であるコワニエや、道路や橋を整備したシスレイなる人物たちは、その後、どんな活躍を日本でしてみせたのだろうか。近代化遺産に関しては、まだ調べることがたくさんありそうである。