京 雅也
2011年01月11日作成年月日 |
執筆者名 |
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2011年01月11日 |
京 雅也 |
住まい・生活 |
その他 |
情報誌CEL (Vol.95) |
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木には「力」がある。では、その「力」がつなぐものは何だろうか。そのひとつは、きっと人々の思いだろう。
東京に住んでいた幼い頃、近くの神社の大きな木に登ったのを思い出す。体全体で木の幹にしがみついて、手を伸ばして枝をつかむと、葉や木の皮がこすれて落ちた。たどり着いた枝から周りを見渡した時の少し得意な気分。掌を嗅いでみると独特のにおいがした。一日の時間が今よりずっと長かった頃、体中の感覚で木の存在をとらえていた。
木に囲まれたその神社は、毎年催されるお祭りの舞台。境内に御輿が繰り出されて、子どもから若者、老人まで、いろいろな人が集まった。その日、神社はまちの人たちのエネルギーがあふれる場所になった。
もうひとつの思い出は雪国でのこと。私は小学生の時に3年間だけ青森県で暮らした。転校した先の学校は古い木造の校舎で、床も机も全部木製。思い出すのは、冬の大掃除。先生が積もった雪を窓からスコップで廊下にどんどん放り込み、それを子どもたちが大騒ぎしながら履いていた長靴で踏み広げた。その雪が溶けてきたのをモップで拭き上げて掃除は完了。そんな寒い季節には、教室の薪ストーブの暖かみがうれしかった。用務員さんの所から薪を運んでくるのも児童の当番。ストーブの柵に弁当を吊って保温していた光景は今も心の中に残っている。
木の建物や道具は、人間の身体感覚に合っているように思える。触れて、感じて、その温かみに包まれる。丁寧に扱えば愛着も増すし、時には自分たちで修理もできる。かつては、身の回りの道具や家や学校にも、そんな「木の感触」がふんだんにあった。こうしたことに思いをめぐらせると、木が持つ温かみが、人の暮らしや子どもの成長にとって、やはり重要で不可欠だと感じられる。
最近私は、休日などの神社巡りを趣味のひとつにしている。大阪市内でも、上町台地の方に行くと、高津宮や生國魂神社など、古くからの由緒を持つ大きな神社がいくつもある。そこには木があって、水と土がある。木立の参道を歩いていると、それだけで気持ちがいい。
木はひとつのランドマークでもある。それは空間的な意味でもそうだが、人と人とのつながりや思い出の中にも存在する。木があることで、その色合いがより鮮やかになるような気がしている。