山本 順三
2011年09月30日作成年月日 |
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2011年09月30日 |
山本 順三 |
住まい・生活 |
住環境 |
情報誌CEL (Vol.97) |
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もう10数年前のことになるが、良質の盆栽を集中的に見る機会があって、おおいに衝撃を受けた。
私はすぐに写真家の増田茂に声をかけ、大きな盆栽展示会を巡り、いい盆栽の写真を撮りためていった。同時に、愛好家が出した安価な盆樹をぽつぽつと求めて、見よう見まねで樹をいじりはじめた。趣味を理解するには実践してみるに限るからだ。
盆栽にのめりこみながら感じたことは、盆栽というものが存外にクリエイティブな趣味であるということだった。
草木の魅力的な部分を発見し、誇張し、その魅力が引き立つ盆栽鉢を選び、鉢上に「自然の美」を表現するという、極論すれば、園芸よりは絵画とか彫刻に近いものだという印象を得たのである。
草木の花や葉の美しさを楽しみに栽培するのではなく、草木の理想的なかたちを創造していく。それはそれまで馴染んできた「園芸」の先にあるものだった。
盆栽が園芸という枠組みでは語ることができない証左にこんな話もある。
ある盆栽初心者が満開に花をつけた盆栽を携えて名の知れた盆栽家を訪ねた。鉢を手に取るなり盆栽家は「花が咲きすぎて汚ならしい」と言い放った。そして、目を丸くしている持ち主の眼前で、花をあらかたつまんでしまったという。
盆栽にとって大切なのは花の数なんかではなく、樹全体の佇まいなのだ。その花樹が美しく見える花の有り様を花を摘むことで盆栽家は示したわけである。
ところで、巷間伝えられているように、盆栽というものは金のかかる趣味なのだろうか。これについては、そうであるともいえるし、そうでないともいえる。300万円の黒松を500万円の支那鉢に入れて床の間に飾るのを無上の喜びとする盆栽家もいれば、公園で欅の種を拾い、実生してつくっていくことに愉悦を感じる盆栽家もいる。
私に限っていえば、高価な古樹は1本も持っていない。盆栽棚に並んでいるのはどれも種をまいたり、挿し木をしたり、あるいは安価な盆栽素材を買ってきて、自分なりに針金をかけて培養したものばかりだ。
そうした若い樹のほかにも、コニファーやガジュマルといった洋種の樹木や、巨大花を咲かすハイビスカスなど、およそプロが手を染めない花木を盆栽仕立てにして楽しんでいる。そんな由緒正しくない樹々でも、猛暑に負けずに元気に枝をひろげているのを眺めると、実に満ち足りた気持ちになるのだ。
盆栽は生け花のような瞬間芸ではなく、長い間つきあい続けてそのよさを味わうものだ。日々手を入れることで、幹まわりが太り、幹肌が荒れ、枝数が増え、理想とする古樹のスタイルに近づいていく。
年々よくなっていく樹々がかたわらにあるから年齢を重ねることが楽しみになる。盆栽ほど老いていく者を幸福にしてくれる趣味はないんじゃないかな、と近頃よく思う。