八木 透
2012年03月26日作成年月日 |
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2012年03月26日 |
八木 透 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.100) |
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筆者が住む京都では、三月から四月初旬の休日には、観光地として知られる嵯峨嵐山の法輪寺で「十三参り」が行われる。数え十三歳になった子どもたちが、法輪寺の本尊である虚空蔵菩薩に参詣して知恵を授かるとされる行事である。このような人生の節目に行われる儀礼は、ほかにも数えれば枚挙に暇がない。
一昔前と比べると、今では子どもの成長を願う諸儀礼や、子どもから大人への移行期に行われる伝統的な儀礼がずいぶん廃れ、その結果、年齢や世代の秩序が曖昧になってきているように感じる。しかし一方で、現代でも、子どもたちの健やかなる発育や健康、そして安らかな老後や長寿を願い、人々は意外と頻繁に神仏に手を合わせていることも確かである。私たちは望むと望まざるとに関わらず、生を受けた者はやがて成長し、そして老い、いずれは死を迎えるという宿命を背負っている。人生の節目に行われるこれらの儀礼を、民俗学では「通過儀礼」「人生儀礼」「冠婚葬祭」などと呼び慣わしてきた。それらの中で、本稿では子どもの無事なる成長を願い、また子どもから大人への橋渡しとなるようないくつかの儀礼を題材として、現代社会における通過儀礼の存在意義について考えてみたいと思う。
-子どもの無事な成長への願いは変わらない-
社会生活においては個人化が進み、くらしのすべてにおいて合理化が蔓延る現代社会の中で、日常で神仏に祈りを捧げる機会は一昔前と比べると著しく減少したといえる。そんな中でも、人々は常に切なる願いを持ち、特にその願望が科学の力ではどうすることもできないものである場合、私たちは過去とさほど変わることなく、神仏の前で頭を垂れ、心底から願いの成就を祈る。安産や新生児の無事なる発育への願いなどは、まさに現代人がもっとも謙虚な心情で神仏の加護を求める例ではないだろうか。
近年、出産は一部の例外を除いて、ほぼすべてが病院で医師の管理のもとに行われるようになったため、出産に関わる民俗的な儀礼はほとんど見られなくなった。たとえば、かつて出産が家で行われることが普通であった時代、新生児の魂を左右するものとして、胞衣をめぐる諸儀礼が重要視された。胞衣とは、後産などとも呼ばれる、いわゆる胎盤のことである。胞衣の処理の仕方は、墓地に埋葬する、胞衣壷に入れて屋敷地内に埋める、玄関の敷居の下に埋めるなど、かつては地域によってさまざまな伝承が聞かれた。胞衣は新生児の一種の分身のように考えられており、新生児の性格、健康、運命などに大きな影響を及ぼすものと信じられていたのである。しかし今日の病院出産では、胞衣は単なる汚物として処理されてしまうため、過去のような胞衣をめぐる儀礼はまったく行われなくなってしまった。