栗本 智代
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2013年07月01日 |
栗本 智代
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都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.104) |
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1994年の旗揚げ公演以来、大阪の豊富な文化的コンテンツを発掘し、その魅力や価値を見直すことで、まちの賑わいづくりの一環として評価を受けている「なにわの語りべ公演」。その最新活動を通して、大阪のまちの魅力を再認識する。
「なにわの語りべ公演」での作品づくりから
「なにわの語りべ公演」活動の展開
関西には豊穣な歴史や文化がある。まちの歩みや物語を発掘し、伝え、活用することで、住民の地域への愛着も高まり、来街者も増え、賑わいづくりや都市ブランドの構築、都市格の向上にもつながる。
そのためのひとつのプログラムとして、大阪を中心に「なにわの語りべ公演」活動を展開している。まちの歩みやエピソードをわかりやすく親しみやすい物語として編集し、語りと映像、音楽効果も入れながら紹介している。もちろん、大阪以外の関西における題材もある。周辺の地域に活動を拡げてほしいという要望も増えてきた。そこで昨年度、"谷崎潤一郎"をテーマに選び、「谷崎潤一郎――愛と創作のジャンクション」と題した新作を上演した。本稿では、その制作プロセスのなかでの視点や、谷崎潤一郎(以下、谷崎)ならではの逸話を抜粋して綴ってみる。
関西での出会いと創作活動
文豪としての谷崎の名前はあまりに有名であるが、その人間像は意外と知られていない。関東出身であるのに、なぜ関西で文筆活動を続けたのか。独自の純文学を大成させた、その作風の源は何だったのか。
谷崎研究は以前から盛んで、複数の研究家によって成果が数多く発表されている。谷崎作品は、彼自身の過ごした土地やともに暮らした人と重ね合わせてこそ、醍醐味がより楽しめる。資料や文献に導かれ、関西での足跡をざっと追ってみると、作品と実生活が表裏一体となり絡み合っている。が、私小説とは異なる。その相関性こそが、数多くの谷崎研究家を生んでいる理由ではなかろうか。関西の、よく知られているあのまちやこの場所に谷崎が住まい、有名作品の数々を生み出していたのだという事実は、その経緯を詳しく知れば知るほど、感慨深いものがある。
生い立ちとデビュー
谷崎潤一郎は、明治19(1886)年、東京の下町、日本橋区蠣殻町、現在の人形町のあたりに生まれる。22歳で東京帝国大学文学部に入学、明治43(1910)年、24歳の時、『刺青』を発表。初期の谷崎は、耽美主義と呼ばれるほど、美と女性への偏愛、マゾヒズムといった捉え方をされている。大正12(1923)年、関東大震災にあった谷崎は、関西へ逃げ延びる。真冬の京都の底冷えに耐えられず、阪神間の芦屋あたりは気候が温暖であろうと引っ越したくだりでは、都会のぼんぼん育ちで甘やかされてきたということが想像に難くない。