大坊 郁夫
2014年03月03日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2014年03月03日 |
大坊 郁夫 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.106) |
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コミュニケーション力とツールの影響
2つの「社会」
まず、社会心理学的には、「社会」といったときに、大きく分けて2つの捉え方があることから考察を始めよう。 例えば、「我々が今住んでいる社会」と表現する場合、日本社会とか、アジア社会といったものなどが考えられるが、こうした社会は、私たち個人の外にあって、その中には、自分自身やほかの人も含めた対人関係や、集団や企業、環境や各種の構造などのすべてが含まれている。この大きな容れ物が社会だという捉え方である。この場合、その社会の像は個人にはなかなか見えてこない。これが「外にある社会」である。
一方で、我々の頭の中の社会というものがある。よく、「社会の目が怖い」とか「世間が許さない」といった言い方を耳にする。この場合の社会や世間とは、自分自身が深くコミットしている関係、または緩やかな価値を共有しているつながりのことを指す場合が多い。これが、「頭の中にある社会」、言い換えれば「内にある社会」である。これは、近いところでは自分の親や家族。それから育ってきた地域社会があると考えるが、「自分は何らかの社会の中の1人だ」と言ったときには、そこには意味のあるものとないものの両方がまじっている。外の社会という大きな容れ物の中にいる大勢の人の中には、それぞれの「内にある社会」のある部分が重なり合う人も、まったく重なり合わない人もいるからである。個人の生き方やパーソナルなものに大きな影響を与え得る「内にある社会」は人によって違っており、当然のことながら、社会認識もずれるのが当たり前である。これを、法律などのいろいろな約束事や、マスコミを通じて広まるような非常に緩やかな広い意味での価値観、そして何より、個人間のコミュニケーションで無理やりつなげているのではないだろうか。人は互いに、個人の頭の中にある社会観のずれや差を埋め、共有できる感覚や知識の共通項を増やすためにコミュニケーションを行い、その結果として、「外にある、構造を持つ社会」を成り立たせているのだろう。 さて、このように、ミクロな人と人とのつながりの積みや学校、あるいは自分にとても影響を与えた中学校の先生とか、先輩、恋人。