豊田 尚吾
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2014年10月15日 |
豊田 尚吾
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住まい・生活 |
ライフスタイル |
デザイン・ユア・ライフ |
なぜ周りが気になるの?
前回、個人のウェルビーイングを考える場合、人との比較を無視できないという研究例を紹介しました。生活感覚からすれば、当たり前かもしれません。しかし、ではなぜ住まいなら隣との比較が気になり、休暇なら気にならないのでしょうか。
一つの仮説はそれが人間の“進化”の過程で形成されたというものです。人類に限らず、生物は様々な理由で淘汰されてきました。生まれてきた人全員が幸福な一生を終えてきたわけでないことは誰でも知っています。そしてこれもまた当たり前の話ですが、生き延びなければ子孫を残すこともできません。生き延びるためには、周りの人たちよりも少しでも多くの食物や衣服、より良い住居を持つ方が有利です。一言でいえば競争ですね。
現在の日本は食べ物がなくて餓死するということはほとんどありませんが、はるか昔では日常茶飯事です。したがって、「周り“より”も多くの財を持っている⇒生き延びることができる」が長年に渡り繰り返されることになります。私たちは結果として生き延びた人たちの子孫ですから、彼らの遺伝子を引き継いでいると考えることができます。
彼らの遺伝子の一つの性質は、周りよりもよくありたい、優位であることが望ましい、それに快感(幸福感)を感じるというものであろうと推測されます。そこで重要なのは、必ずしもそれが一人一人の生活者に“意識されている必要はない”ということです。
自らを振り返ってみると、そんなに「負けず嫌い」でもないし、人との比較で幸福感など感じていないと本心から思っている人も多いでしょう。もちろん個人差はあります。けれども一般に、自分では意識しないうちに、ついつい周りとの比較を重視して様々な意思決定や選択をしているという事実が観察されています。そこに意識と行動のギャップが発生します。それを理解することはウェルビーイング論の本質といってもいいくらい大切なことです。
意識していない。それも自分
つまり、自分の選択や意思決定、それに続く行動というものは「自分が自分であると考える意識」だけでコントロールできているわけではなく、意識しないままに(非意識の影響によって)それらにバイアスがかけられているという考え方です。
バイアス(偏り)というのは、自分自身が「意識」だけでできているのであれば選択しなかったであろう(意識が求めているあるべき姿からずれている)ということを意味しています。本来、そのような自動的に発動するプログラムは、その人の立場を有利にするような効果を持っていたはずです。だからこそ生き延びてこられた。ところが私たちの現実の社会環境の変化によって、それが必ずしも適応的(環境に適している)でない場合が出始めている、というわけです。
11月1日発行予定の情報誌CEL108号の鼎談で、京都大学の伏木教授は「満腹感というものは、どちらかというと欠乏の時代にできるだけたくさん栄養素をとるために設定されているものなので、それに従って食べると、だいたい食べ過ぎるようになっているんです。」と述べています。同様に、生き延びるため周りよりも優位を求める非意識のプログラムは、餓死や暴力などで命を奪われるリスクが非常に小さくなった今日の日本社会においても発動し、過度に周りとの比較にこだわりすぎるように機能していると考えられます。
前回の最後にRobert H. Frankが周りとの比較が重要な財を過度に追い求める結果、本来重要である非位置財から目をそらし、大きな厚生(≒ウェルビーイング)の損失を招くというまとめを紹介しました。冒頭の比較でいうと休暇が“本来重要である非位置財”にあたります。ワーク・ライフ・バランスに対する意識は最近高まってきていますが、それでも望ましい仕事と休暇のバランスを実現できている人は多くはないように感じます。
もちろん、それは将来に対する不安や再チャレンジしにくい雇用制度など、明確に意識された合理的(やむを得ない)判断だという理解もあり得るでしょう。しかし位置財の追求が休暇をクラウドアウト(機会を追い出)している面も無視できないように思います。
以上、ウェルビーイング実現のためのヒントが一つ見つかりました。今後さらにこのようなヒントを探していきますが、その前に「意識できる自分」しかも「合理的だと意識できる自分」とウェルビーイングについて考えてみたいと思います。すでに私たちはそのような側面だけではウェルビーイングを「十分には」実現できないと気づいていますが、その気づきを前提として、ベースとしての合理的な人間を考えることは有用であると思います。