東四柳 祥子
2014年11月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2014年11月01日 |
東四柳 祥子 |
住まい・生活 |
食生活 |
情報誌CEL (Vol.108) |
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第二次世界大戦の終結から70年、家電の普及、食品開発技術の進歩、そして政治・社会情勢は、日本の家庭の食卓にどのような影響を与えてきたのだろうか。家庭料理の現代史をここで確認し、未来の食を展望するための基礎的な理解としたい。
終戦、そして食の正常化へ
小学生の頃、戦争期の食生活について、祖父母にインタビューする課題が出たことがあった。早速聞き取りを開始したものの、南洋に従軍していた祖父の口から出てきた食材は「へび」「こうもり」「かえる」「いもり」などのゲテモノばかり。子供心に「げんなり」してしまったことを今でも覚えている。また戦争当時、「銃後の乙女」として生きた祖母は、雑炊や玄米パンなどの節米目的の食事がメイン。しかし、祖母が青春時代を過ごした能登は、それほど深刻な食料不足に陥ることはなかったらしい。そしてある日、こんなことを語ってくれた。
おばあちゃんね、海軍潜水学校で事務員してたんやけど、お昼ごはんに出される白いごはんとイカを甘辛く煮た料理が大好物やった。特にイカがほくほくでね。未来の兵隊さんたちは、栄養をつけるために、しっかり食べて訓練を受けてたんやよ。
昭和20(1945)年8月15日。そして戦争は終った。しかし、日本の食料事情はすぐに上向きになったわけではない。「食糧管理法」のもと、国が管理する配給体制は依然として継続され、国民の食生活は不安定なままであった。昭和20(1945)年11月1日には、日比谷公園で「餓死対策国民大会」が開催され、さらに全国で「米よこせデモ」など、各地で食料を求める運動が勃発した。特に都市部での食料事情は劣悪で、闇市の横行、郊外への買い出しブームが興隆。さらに昭和23(1948)年には、主婦連合会が発足し、中心となった主婦たちが、象徴的な台所道具「しゃもじ」を掲げ、食料不足の解消を訴える活動を展開した。