谷 直樹
三浦 史朗
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備考 |
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2017年07月03日 |
谷 直樹 |
住まい・生活 |
住環境 |
情報誌CEL (Vol.116) |
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災害が多発する近年の日本では、被災地での復興をはじめ、まちづくりのあり方が根底から問われているが、まちの歴史や文化を継承した豊かな生活空間=「場」の再生はいかに進められてきたか。大阪くらしの今昔館で館長を務め、上方の建築文化・生活文化を研究する谷直樹氏と、数寄屋建築の手法を用いて精力的に東北の復興に携わる三浦史朗氏に、今後、地域・社会を再起動するための「場」づくりに必要な視点についてお話をうかがった。
被災地で発見した自分の新しい役目
谷:回の対談を行う場所として、三浦さんの手がけた建築がある候補地のなかから、ぜひ気仙沼に行きたいとお願いしました。大阪を拠点とする私としては、阪神・淡路大震災のときにいろいろ思うところがあったからです。
当時、私が主査をしていた日本建築学会近畿支部の建築史部会では、昭和初期に建てられた数寄屋風の邸宅など、阪神間の歴史的建造物の被害状況を手分けして調査したんですが、構造の専門家が倒壊の危険があるというレッドカードやイエローカードを貼ると、貼られた所有者はもうアカンと思ってしまう。僕たちがいくら、これは歴史的に意味がある大事な建物で、なくなってしまったら二度とつくれないと話しても、命に関わるのでこわいから建て替えるとおっしゃる方が大半で、無力さを感じました。芦屋の重厚な邸宅が軽いプレハブの住宅に置き換わって、はたして数十年たって落ち着いた街並みになるのか。まちというのは馴れ親しんだ街並みが徐々に変わっていくことによって深みが出ると思うので、途中で断絶してしまったのは非常に残念です。
それだけに、三浦さんがどんな思いで東北で新しい建物をつくっているのか、その建築家としての衿持をうかがうことが、これから自分が大阪でなすべきことのヒントやエネルギーになればと考えたわけです。
三浦:僕が最初に気仙沼に来たのは、震災から約半年後で、以前からお付き合いがあった糸井重里さんに「距離が離れたところにいても現地で必要なものがわからないから、ひとまず現地に御用聞きに行こう」と声をかけていただいたのがきっかけです。その直後に縁あって出会ったのが気仙沼観光タクシーの社長、宮井和夫さんでした。初対面で10分ぐらい話しただけで「家を建ててほしい」と頼まれました。僕のことも三角屋も誰一人知らないまちに来たことで、自分の新しい役目が開けた気がします。この6年間に気仙沼で10件のプロジェクトに携わり、今も2件が進行中です。