町田 康
2021年03月01日作成年月日 |
執筆者名 |
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2021年03月01日 |
町田 康 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.127) |
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私は二十歳まで大阪で暮らしたが、そのときは大阪という土地や土地柄を強く意識することはなかった。それを意識するようになったのは四十年前、二十歳を過ぎて東京で暮らすようになってからである。
なぜというに当時は情報技術も未発達で東西の距離が今よりもずっと遠く、言葉をはじめとして人の気質や風俗が随分と違い、人間関係に齟齬をきたして悩むことが多かったからで、それによって初めて、自分は大阪の人間である、と意識するようになったのである。
私はカネが入ると本屋に行って、元々好きだった落語や漫才についての本を皮切りに、大阪の文化や歴史について記した本や大阪が舞台となった小説など大阪に関連する本を買っては読むようになった。
そして大阪に居るときは知らなかったことを知ってそれに感じ入り、のめりこんだ。
織田作之助の小説を読むなどしたのもこの頃である。
二十歳そこそこの、なんのコネも手に職もない餓鬼がひとり都会に出て、その不安を誤魔化すための理屈を本から借りてきているようなところもあった。
「俺は大阪の人間や。そこらの田舎者と一緒にすな。なめとったらしばきあげんど」と口に出しては言わない。言わないけれども心のなかでそう思っていたのである。
大阪に居るときはそんな界隈には寄りつかず吉野家やファミレスにばかり行っていたくせに、「鱧の皮の味もわからんもんが」とか、歌舞伎なんて見たこともないくせに、「今の噺家はええ芝居見てないから可哀想や」などと嘯うそぶき、目を剥いて力んでいたのである。
かくして他国で暮らす私にとって大阪はスペシャルなものとなっていった。だから用があって大阪に帰るとたいへんに心が落ち着いて東京に戻りたくなくなって困った。
それはスペシャルであると同時にその頃の私にとっては、事物の本来あるべき状態、であったのである。
そしてそんなことが重なるうちに私はなにかにつけ大阪を振り回すようになった。というのは例えば上方落語の旅ネタによく出てくる大阪の元気な若者が、「こら、大阪の若いもんやで、大阪のもんがやねぇ、いっぺん泥の付いたワラジなんか二度と履くかい」
「嘘やと思たら大阪へ出て来い。大阪のざこばへ。とれとれの鯛がドテラ着て火鉢の前でプカプカ煙草吸ぅてる」
「当たり前やないか、大阪の若いもんやちゅうて泊まってんねんで、酒も呑まんと寝たてなことなったら大阪もんの名折れんなるぞ」
なんて旅先で威張り散らすのに似ていたかも知れない。