黒沢 清
2022年03月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2022年03月01日 |
黒沢 清 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.130) |
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高校までしか神戸にいなかったから僕の記憶もずい分と古いところで止まっているのだが、1970年代半ばまでの神戸の街の風情を振り返ってみると、あちこちにごく普通に西洋の館が建っていたように思う。生まれた灘区の団地の向かいはキリスト教系の神学校で、その庭園は遊び仲間たちの格好の探検場所だったし、小学校は芦屋なのだが、通学途中の坂道に厳めしい石造りの邸宅があり(これは今もある)、学童たちが通ると決まって塀の上からシェパードがワンワン吠えてきて肝を冷やした。中高の通学は阪急電車で、車窓から毎日のように住吉川上流の山麓にそびえる恐ろし気なヘルマン屋敷の廃墟が見えた。それが特に目立ったわけではなく、そこにあるのが当たり前で、僕は当時とりわけ西洋館マニアではなかったから、近づいていちいちその建物の細部を観察もしていない(しておけばよかったと今はちょっと後悔している)。
東京に出て映画を撮るようになってからだろう、ロケ場所に適した西洋館はないかしらと探し出すと、これがほぼない。あってもそれは綺麗に保存されていて、とても映画撮影に使わせてくれるような場所ではない。それである時、神戸にはそんなのがいくらでもあったと思い出して、一度そういう目で神戸の街を見てまわったことがある。ちょうどバブル期だ。灘区の神学校もヘルマン屋敷も既に跡形もなく、芦屋の邸宅は文化財として厳重に保存されていた。それどころか、昔よく行った三宮北側の洋館が立ち並ぶ通りは、異人館とかいうふれこみで一大観光地になっていて物凄く驚いた記憶がある。
まあ、それはそうだろう。こっちだって映画のロケ場所として非日常の空間を望んでいるわけで、日本全国どこでも西洋館は物珍しく目をひくのである。でも、どうして昔は全然気にも留めなかったのか。その理由はかつて自分も幼く、西洋館のありがたみに気が付かなかったというのもあるが、それ以上に、当時の街並みは日本家屋でもビルでも工場でもどれも規格外れだったというのがあるのではないか。つまり、空襲による破壊から復興した街にはそもそも規格というものがなく、実に出鱈目な建造物がそこかしこにあったのだ。増築に増築を重ねた奇怪な家とか、装飾なのか機能なのかよくわからないデコボコがあちこちに突き出た集合住宅(我が家もそうだった)とか。あと、よく覚えているのは団地の屋上からいつも見えていた海沿いの巨大な製鉄所。あれは異様だった。