湯澤 規子
2024年03月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2024年03月01日 |
湯澤 規子 |
都市・コミュニティ |
コミュニティ・デザイン |
情報誌CEL (Vol.134) |
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格別の一食
子どもを産むという大仕事を終えた後の食事がこんなに美味しいとは、それを経験するまで知らなかった。私の場合、それは朝ごはんの記憶である。ほどよく塩が効いたおかゆを食べ、その日の昼ご飯には野菜たっぷりの冷やし中華を食べた。
母もまた、出産直後の食事が忘れられないらしい。それは義父が産院まで持参した「大阪寿司」だったのだとか。働いていた会社の会議弁当で時折見かけるその寿司は、彩り良く箱に詰められ、普段の食にするには高値の花で、母にとっては憧れの一品でもあった。思いがけず自分のためだけに用意された大阪寿司を喜び、この時ばかりはベッドの上で大いに舌鼓を打つことができたのだから、その嬉しさは格別だったことだろう。
箱寿司の妙
生魚を用いる握り寿司の江戸、酢で〆たり、焼いたりしたものを寿司飯と合わせる押し寿司の大阪。同じ「寿司」とはいっても、その形状はずいぶん違う。私にとって寿司にまつわる思い出は、江戸前のそれではなく、押し寿司と決まっていた。
大阪寿司の中でも「2寸6分の懐石」と呼ばれる箱寿司は、大阪の胃袋を愉しませてきた一品といってよいだろう。2寸6分とは、約6×1.8センチメートル、つまり、箸でつまみ上げるひとつの長方形の押し寿司そのものが懐石というわけである。その華やかさはもとより、色々な味を食べたいという胃袋の貪欲さ、限られた空間をめいっぱい使い尽くすという抜け目なさ、それが全体として愉悦を生み出している妙が見どころ、味わいどころである。
なにしろ、ひとつの押し寿司をつまむと、上にはエビとアナゴの2種がのっていたり、上は1種でシンプルに見えながら、寿司飯の間に海苔や煮たシイタケが隠れる二層構造であったりするのである。寿司という空間を、縦にも横にも展開している面白さがある。伊達巻の一片が大胆にのっているところは心憎い楽しみどころでもある。
もとは庶民の間で大衆魚を用いた押し寿司が親しまれていたところ、近代に船せ ん場ば の寿司店が鯛、エビ、アナゴなどの高級食材をふんだんに使った箱寿司を考案したのが始まりで、芝居の幕間弁当や手土産として重宝され、大阪全域に知られるようになった。